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2009-04-04 00:00
(連載)脱皮しつつあるNATO(1)
矢野 卓也
日本国際フォーラム研究員
昨日今日と、北大西洋条約機構(NATO)首脳会議が行われている。開催地がじつに興味深い。初日のワーキング・ディナーがドイツのバーデン・バーデンで行われ、会議当日はドイツの国境の町ケールから徒歩でライン河に架かる橋を渡り、フランスのストラスブールに入るという。いうまでもなく、ケールとストラスブールはライン河を挟んだ独仏国境の町であり、両国の長年にわたる確執の象徴というべき場所である。17世紀来ひさしく互いの侵略を防ぐ要塞が建っていた。むろん、過去の話であり、今では買い物のために市民らが橋を渡って隣国に入るということが日常的に行われている。
NATOは、1949年4月4日にワシントンD.C.において、米、英、仏等12カ国のあいだで締結された北大西洋条約にもとづき結成された。まさに60年前の今日のことだ。むろん締結当初は、ドイツ(当時は西ドイツ)は加盟していない。「Keep the Americans in, the Russians out, and the Germans down」というのが設立当初のNATOのスローガンであった。いうまでもなく、NATOは、共産主義ソ連の影響が東欧諸国に及んだことで、西側として多国間軍事同盟が必要だとの認識から結成されたものであるが、それと同時にドイツを抑え込むことも、そもそもの趣旨の一つであったのである。それほどまでにドイツはヨーロッパの問題児であった。
とはいえ、冷戦の激化とともに、西ドイツの経済復興の必要性から、米国を中心に、西ドイツを「普通の国」として扱おうとする動きが出てきた。当初、それに強硬に反対したのがフランスであった。フランスはどうしてもドイツの復興に心穏やかにはなれなかったのだ。主権回復とともに西ドイツは再軍備を許されたわけであるが、フランスはドイツのNATO入りに反対し、「欧州防衛共同体」なる独自の欧州防衛構想を打ち出しもした。結局この構想は頓挫し、西ドイツはNATO入りを果たすこととなった。1955年のことである。その後、西ドイツ、そして冷戦終結後の統一ドイツが、現在のNATOにとって、そして欧州全体にとって、不可欠な存在になったことは改めて指摘するまでもない。
他方、フランスであるが、ド・ゴールの指揮の下、米国の息のかかったNATOに従属することを潔しとしないとの理由で、NATOから離脱してしまう。正確には完全な離脱ではなく、フランス軍をNATOの統合軍指揮権下から外し、他のNATO加盟国軍のフランス駐留を排除したに留まったが、これによりNATO統合軍本部は、パリからベルギーのブリュッセルに移転することになった。その後、フランスは独自の核を持ち、NATOとは一定の距離を保ち続けた。そのフランスも冷戦終了後、NATOに次第に歩み寄りを見せるようになり、そして本日の首脳会議をもってNATOに完全復帰することとなる。フランス国内で反対論が強い中での、サルコジ大統領の英断である。(つづく)
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