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2009-04-14 00:00
(連載)NATO60年の歴史を振り返って(1)
山田 禎介
ジャーナリスト
北大西洋条約機構(NATO)発足から60年。矢野卓也日本国際フォーラム研究員による先ごろ仏ストラスブールでのNATO首脳会議に関する投稿「脱皮しつつあるNATO」を興味深く拝見した。私自身、冷戦崩壊後の1990年代後半にNATO本部のあるベルギー・ブリュッセルに駐在し、欧州各地でのNATO首脳会議、外相理事会、国防相会議等を取材した経験を思い出す。矢野研究員は、結論として「集団的安全保障をめぐって、あれこれ神学論議にふけっている場合ではない。東アジアとしても、欧米と共に、安全保障において『共進化』をとげるべき時代に入りつつあるのではないだろうか」と結んでおられる。この「神学的」という表現は、私自身の解釈では、戦後日本のある時期における現実的思考の欠如・限界に重なるものがあり、それはある面ではいまも存続していると解釈したのだが、いかがだろうか。
ソ連に対抗する集団防衛体制から発足したNATOを語る場合、とかく欧州に焦点をあてがちだが、加盟国アメリカとカナダの位置を忘れてはならない。北米を含めた北極からの俯瞰図を眺めてこそ、米ソ冷戦の歴史構図が見える。また歴代事務総長は欧州勢だが、母体の北大西洋条約は米国ワシントンで調印され、初代NATO欧州連合軍最高司令官はアイゼンハワー(のちの大統領)であった。そして現在まで歴代最高司令官は米将官である。それだけにアメリカがNATOの盟主であることは否定しようがない。このことはのちにフランスのドゴールの強い反発を招く。
ところで、冷戦時の最初のハイライトは、西ドイツの建国(1949年)とその再軍備(1955年)であった。当時のソ連が同時に東ドイツを誕生させたこともあり、アデナウアー首相率いる西ドイツは、自ら再軍備を望み、結局実現をみたが、そのドイツ連邦軍は、全軍がNATO指揮下に置かれるというものだった。日本と西ドイツの戦後史がよく比較されるが、ドイツもアメリカの要求・要請で再軍備を余儀なくされたとみる人がまだいる。だが当時の西ドイツの再軍備は、ソ連の脅威を目の前にした西ドイツ自身の悲願だった。一方西ドイツの再軍備に対抗して、ソ連を盟主とする東側も同年軍事同盟ワルシャワ条約機構(WTO)の発足に踏み切った。
冷戦構図ではさらに、トルコのNATO加盟(1952年)というハイライトもあった。西ドイツのNATO加盟に最後まで懸念を示したのはフランスだったが、トルコの加盟には、すでにNATOに加盟していた隣国ギリシャが反発し、デモや大暴動まで起こった。アメリカは大量経済援助という飴でギリシャをなだめたが、当時ソ連と国境を接していたトルコを加盟させて、そこに基地を置くことこそは、NATO盟主アメリカにとっての悲願だった。こうした強大なアメリカ支配を早くから嫌悪していたのがドゴールであった。「NATOは欧州のもの」と反発し、パリにあったNATO本部の撤収を求め、軍事機構から脱退した(1965年)。フランスは現サルコジ政権でようやくNATOに完全復帰したが、NATO本部は現在ベルギーのブリュッセルにある。かくしてブリュッセルには、NATOと欧州連合(EU)の本部が、わずか5キロの距離で並列する。(つづく)
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