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2009-12-02 00:00
(連載)なお残る国民投票に委ねることの懸念(2)
玉木 洋
大学教授
また、国民投票の結果であれば、それは最終最高の権威があるものであろうから、国会等における議論のみで再びそれを覆して実現可能な道を探ることも困難になってしまう。民主政治の運営のさまざまの方法には、もちろんそれぞれ長所短所があるのであり、状況によって、場合によって、選択すべき方法は異なるのであろう。しかし、現在の状況における政策決定の内容への懸念を動機として、国民投票を導入することによって納得する道を探る(もしかしたらより良い結論が得られるかもしれないし、そうでなくてもそれ以上の意思決定方法がないのであきらめて納得する)ということが、より良い方策とは、私にはなかなか思えないのである。もちろん今日多くの分野で代表者たち(国会議員)を上回る識見を持つ国民も多いことも確かであるが、国民投票によってそれが適切に発揮されることは、あまり期待できないであろう(埋没するおそれが大きい)し、また個々の国民の価値判断が政策決定上重要な案件もあることも確かであろうが、今国民投票の対象とすることが適切な重要案件があるとは、必ずしもいえないのではないだろうか。
むしろ今日の状況を改善していくためには、代表制民主主義を基本とした上で、その代表制民主主義の中で国民の意見や利益を的確に(長期的・全体的な面も含めて冷静に)踏まえて、より良い結論を代表者たちに出してほしいと思うのである。なお、民主的団体を構成する平等・対等の構成員間において正誤・当否を決するのは、結局のところ多数決によることとなり、その際には多数決の結果を正しいものとして扱うほかないことは、認識しているつもりである。しかし、国民投票制度を導入するということは、代表制に基づく代表者たちによる決定が国民投票によって覆される可能性を想定した場合に特に意味があるのであり、そのような場合を念頭に置いたため、「誤り」という表現になったものである。
私も限定的な国民投票制度には必ずしも反対ではないが、代表制のよさを殺すおそれもあり、国民投票制度を導入すべき場合は、かなり限定的に考える必要があると考えている。また、国民の意思を尊重する形式であるために、一度導入されればその対象はかなり拡大しすぎる危険もあると考える。一方、代表制の中での民意の反映をよりよく行うことの方が、国民にとっても実質的に納得しやすく、利益があるのではないかと考えるのである。また、私も「基本的に日本国民は全体意志を信頼できるほど程度が高いと信じ」たいのではあるが、自分に直接的な利害がないような案件についてまで、適切な情報を得て判断するということは難しく、通常マスコミを通じた限られた情報によって判断することになりがちという事態も予想される。また、いずれにしても、それぞれの国民が自らの仕事やその他の自分の生活の時間を割いて、国民投票について的確かつ十分な情報を得て、慎重な検討を経て、結論を出すことには、相当な困難があるのではないかという懸念も持っている。
私自身、日頃多くの問題について、なるべく関係者の直接の発表などを通じて、政策案件に関する事実を知りたいと思ってはいるが、非常に限られた分野について限られた情報を得るのが精一杯になりがちだと感じている。案件ごとに直接の利害関係や深い関心などがない国民の方が多い、という場合は少なくないであろうことも考えれば、国民投票にゆだねることによる懸念事項をこそ、十分に考える必要があるように私には思われる。(おわり)
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