ホーム
新規
投稿
検索
検索
お問合わせ
本文を修正後、投稿パスワードを入力し、「確認画面を表示する」ボタンをクリックして下さい。
2006-06-19 00:00
暴走する国立追悼施設建設論とその盲点
斉藤 茂
無職
6月1日付けの小池享氏の「追悼施設はなんのためにだれを祀るのか」にまったく賛成である。だれも論じていない国立追悼施設建設論の盲点だと思うので、同じことを考えているのは小池氏だけではないということを示すために、以下私見を投稿する。
「中国や韓国から文句をつけられるのは、A級戦犯を合祀しているからだ。分祀しようと思っても、靖国神社は独立した宗教法人だから国の言うことを聞かない。それなら、国が靖国神社に代わる追悼施設を創ればよいではないか」、そんなところが靖国神社に代わる国立追悼施設を創りたいという議論の出発点だったと思う。
私もこのあたりまでなら理解できるし、賛成してもよいと思っていたのだが、その後の国立追悼施設建設論を見ると、さらにその先を勝手に暴走している。しかもそのことが国民にはまったく知らされていない。そもそも「暴走」という理由は、福田康夫前官房長官の諮問会議の一部分子(山崎某)が諮問会議を乗っ取って、国民的議論どころか、諮問会議内部の議論さえも尽くさずに、とんでもない結論を諮問会議の報告書に盛り込んだからである。
「せっかく創るのなら、戦死者だけでなく一般被災者も追悼すべきだ。ついでに敵味方の差別もやめて、あの戦争の犠牲者はすべて一緒に追悼すべし。日本兵を殺した中国兵も、広島・長崎を爆撃した米兵もすべて一緒に祀れ」という暴論である。これが「良識ある見解」と自画自賛されている。だれでも祀るということは、だれも祀らないというのと、同じことになる。それが真の狙いだ。
このような考えの背後にある考えは、つぎの6点であることを指摘したい。(1)日本はもう戦争することはないのだから、あの戦争が最後の戦争になる。(2)だから、あの戦争の戦死者だけを祀ればそれで追悼施設の役割は終わる。(3)ところで、あの戦争の犠牲者は、戦死者だけでなく一般被災者もいる。この際、国民全部を祀るべきだ。(4)さらに、あの戦争は侵略戦争だったから、日本人だけを祀ることは許されない。(5)将来、日本が侵略を受けたとしても、日本には平和憲法があるのだから、国民は国を守るために戦う必要はない。(6)だから、国を守るために戦場で死んだ者(戦死者)だけを祀るという発想は排斥されねばならない。
投稿パスワード
本人確認のため投稿時のパスワードを入力して下さい。
パスワードをお忘れの方は
こちら
からお問い合わせください
確認画面を表示する
記事一覧へ戻る
公益財団法人
日本国際フォーラム