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2011-11-12 00:00
日本は、タイへの過大評価を見直す時期に来ているのではないか?
山田 禎介
国際問題ジャーナリスト
東南アジアで歴代英明君主を戴く近代のタイは「巧みな外交政策で、周辺国のように外国の植民地にされることなく、独立を保ってきた」と、日本では高く評価する。だが今回のバンコク周辺の大洪水騒ぎを見るにつけて、個人的に長年抱いてきた疑問が再浮上する。タイの首都バンコクはかつて「東洋のべニス(ベネチア)」と称されると同時に、タイ全体が「熱帯瘴癘(しょうれい)地」とされた時期がある。歴史上、英国とフランスが、タイを緩衝国としたのは両植民地主義国家の都合。タイは巧みな外交政策で植民地化をまぬがれたというより、当時の執拗な植民地主義も熱帯瘴癘地という現地状況を判断、また繰り返し起こる大洪水を土木工学的に計測し、支配をあきらめたと見るべきでは、というのが私の見解である。
「東洋のべニス」とは、タイがまさに大河チャオプラヤ(メナム)の恵みの地だからだ。かつてバンコク都心には運河が網の目のように広がっていた。だが1980年代、新聞記者として東南アジアに駐在した私が見たバンコク市内では、運河埋め立て直後で水が染み出す公園があった。すでに小型三輪車などが運河交通に取って代わっていた。さらに現在、高架鉄道、地下鉄が整備された巨大都市へと変貌した。他方、「熱帯瘴癘地」という外務省用語がある。タイなどの瘴癘の地に駐在する外交官には、瘴癘地手当が加算される。19世紀、20世紀初頭の欧米水準でタイは「熱帯瘴癘地」。後発国日本の外交制度もこれに倣った。
19世紀までの欧米各国による植民地化と港湾土木橋梁事業は車の両輪であった。本国の環境からも土木技術には自信を持つオランダは植民地バタビア(現ジャカルタ)に港湾や水路を拓いた。またミャンマー(ビルマ)には英国が、インドシナにはフランスが進出して、これを植民地にし、港湾土木橋梁事業を導入した。これに対し、タイのチャオプラヤ水系であるバンコク周辺の広大な湖沼地域では、港湾土木橋梁事業は植民地支配的でのコストとしては到底見合わないものだったろう。こうして欧米各国によるタイ植民地化の意図は、高温湿地の「瘴癘地」という環境も加わり、急速になえたのではないだろうか。というのは、当時の欧米植民地主義はわずかな口実も利用し、冷酷かつ徹底して侵略した。インド、ミャンマー、インドシナ、フィリピンも、それをのがれることが出来なかった。とてもタイ自身の外交努力で独立が保てたとは言いがたい。
再度、1980年代に戻る。当時はシンガポールがオーストラリアとの中継地として、東南アジアの経済十字路の地位を確保したが、まもなくバンコクにその地位が代わった。ノンストップ・ジャンボ機中心の航空路、衛星通信回路のグローバルな整備とともに、インドや中国につながるタイの地位が向上したからだ。日本の新聞社、テレビ局のアジア総局もシンガポールからバンコクに移動した。それに軌を一にするようにタイは日本企業からも注目を浴び始めた。「タイへの企業投資は、立地優位性が高い」と、日本では近年、官民一体で“経済投資キャンペーン”を張ってきた。今日では、進出日本企業も、自動車、電気・電子産業と多彩であり、中小製造業もリスクの高い中国からの鞍替え組が多い。
そこへ、今回の大洪水が発生した。タイ全体の経済発展による自然環境の破壊も、大洪水を加速させたのかも知れない。だが、根底には、半世紀に一回は確実にある自然の摂理としてのチャオプラヤ大氾濫に、目が行き届かなかったのではないか。皮肉なことに、運河が網の目のように広がっていたかつてのバンコク都心に、水が戻ろうとしている。歴史としては確かにタイの欧米各国による植民地化はなかった。では今回のバンコク周辺浸水工業団地群に、欧米各国の企業は果たしてどの程度、進出しているのだろうか。おそらくかれらはかつて侵略を断念したのと同様、こうした企業進出はおそらく前から躊躇していると思う。現地報道でも欧米企業は見当たらない。日本はタイへの、これまでのムードだけの過大評価を見直す時期に来ているのではないか。
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