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2006-12-19 00:00
「東アジア共同体」論:日本はどこまで本気なのか
矢野卓也
オーバードクター
昨今「東アジア共同体」に関する議論がさかんである。「共同体」成立をめぐっては、その積極論、消極論ともに重要な論点を提示している。EUやNAFTAに代表されるような、世界規模での地域統合への動きが見られるなか、東アジア地域においては、いまだ諸般の事由から各国の足並みが揃っていないのが現状である。したがって、この地域においても、当該国の超国家的連携を図るべきだという立場が出てきてもおかしくはない。他方、この地域固有の問題群ないしは地政学的視点にかんがみ、統合への拙速をたしなめる立場も容易に理解できよう。
一般に、地域統合においては、統合の上でハブとなる国家が成立する。主導的地位を担うその国家は統合地域の対内的・対外的あり方に対し、決定的な影響力を行使することは論を待たない。それゆえ、地域統合をめぐる議論では、その中心的役割を担う国家はどこかという問題をめぐって議論が加熱する。東アジアでは、その存在感もあって、「共同体」論はそのまま中国論となる所以である。いわゆる中国脅威論者は、「東アジア共同体」が前近代的な朝貢体制復活に堕する事態を憂うるであろうし、また「反米」の砦として機能することを危惧する向きもあろう。対して、統合推進派は、この地域に未だかつてない平和的な連帯を期待し、ひとつの「歴史の終わり」を待望しているのかもしれない。いずれの立場も、この共同体成立が、今後この地域の性格を恒久的に定めるものであるという認識では一致している。
では、この地域におけるもう一つの大国である日本が主導となって、東アジアの地域統合を牽引するという考えについてはどうであろうか。わが国においても、かつて大アジア主義や大東亜共栄圏の構想といった、ある種の地域統合への視点があった。「近代の超克」なる性格をも孕んだそれらの構想は、結果的に、その気宇壮大さゆえに自滅したともいえるし、その反面、それなりの時代的要請があったことも否めない。仮に、今日この地域における統合の時代的要請があるとして、わが国主導の地域統合の構想が、そのような先達の構想より優れたものになりうるか否かは、それほど自明ではないだろう。
東アジア地域は、「近代」と「前近代」が交差する複雑な歴史的空間であり、地域のアイデンティティが一義的に定まらない、あるいは一義的に定めようとすると無理の生じる空間でもある。「脱亜」「入亜」といった文明論的な視角までにも配慮しようとすると、議論はますます錯綜することになる。政策論が文化論となり、文明論となり、同時に政治的緊張をも帯びるというのが、この「東アジア共同体」論ではないだろうか。結果的に、東アジアにおける地域統合を論じる以前に、まずは二国間の関係改善を、という「常識的」な議論に終始してしまうのも無理はない。「東アジア共同体」論をぶつ際に、日本はどこまで本気なのか、どこまでの覚悟を持ち備えているのかという、「常識的」な確認が今一度必要となろう。
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