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2014-07-29 00:00
求められる「ハンディキャップ国家」論からの脱却
高峰 康修
岡崎研究所特別研究員
集団的自衛権に基づく実力行使容認をめぐる憲法解釈に関する議論は、周知の通り、7月1日の閣議決定により、「ある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」を要件に、他に適当な手段が無い場合に、必要最小限度の実力行使をすることが憲法上容認されることとなった。集団的自衛権の行使は、憲法上許されないと言わざるを得ないとした、1972年の政府資料の提出から42年、集団的自衛権は国際法上保有しているが憲法上行使を許されないとした、有名な1981年の答弁書から33年ぶりの、歴史的転換である。そして、もとより、その方向性は間違っていない。
しかし、大いに懸念すべき材料が残っている。今回の再解釈は、集団的自衛権の「限定的容認」と言われる。個別的自衛権の行使について、専守防衛の考え方を改めない以上、それとの整合性を考えれば、やむを得ないことではある。問題なのは、集団的自衛権の行使を容認する必要性を説くよりも、むしろ、今回の決定が如何に限定的なものであるかを強調し、歯止めがかかっているかを強調することを迫られた点である。これは、自公協議では、公明党がブレーキ役となり、原案の「根底から覆されるおそれ」から「根底から覆される明白な危険」と改められたのが象徴的である。ただ、これは、公明党云々というよりも、国民の意識の問題と言った方が正確であろう。
閣議決定直後のいくつかの大手マスコミの世論調査では、再解釈に対する反対が過半数に上った。それは、再解釈に対する「戦争の出来る国になる」「手続きを経ない解釈改憲である」などといった、一部マスコミの異常なキャンペーンの結果であるが、そういうキャンペーンを受け入れる素地が国民にもあったということである。すなわち、憲法9条の特殊性を維持し、普通の国に近づくことへの拒否感である。そもそも、集団的自衛権の行使には、国際法上、厳しい制約が課せられている。国連憲章では、集団的自衛権に基づいてとった措置は直ちに安保理に報告する義務があると規定されている。1986年の国際司法裁判所の「ニカラグア事件」本案判決では、集団的自衛権の行使の要件として、被攻撃国の来援要請を挙げている。そして、個別的と集団的とを問わず、自衛権の行使には、国際法上、必要性と均衡性が求められている。政府は、こうした諸点をもっとよく説明すべきであったし、そうすべきであろう。
憲法9条の特殊性を強調し、軍事的に出来ることが可能な限り制限されるのは当然とする立場は、1990年代に著名な外交官らが唱えた「ハンディキャップ国家論」である。この点、自民党政務調査会の田村重信調査役は、著書『これで納得!日本国憲法講義』(内外出版)の中で、憲法9条の改正への反対につき「悪いことをして牢屋に入った人が、牢屋から出たら自分に自信が持てなくて、また同じ過ちを繰り返してしまう可能性がある。だから、牢屋から出さないでくれというのと同じことです」と言っている。正鵠を射た指摘であり、今般の再解釈にも当てはまる。こうした意識が払拭されなければ、安全保障上の必要性に基づいた政策論が困難になってしまう。政府は、「ハンディキャップ国家」を良しとするような風潮を打破するよう指導力を発揮すべきであり、今後の関連法改正の議論において、さらに「限定」が厳しくなり、集団的自衛権の行使を容認した意義が没却されるようなことのないようにしなければならない。
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