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2014-09-02 00:00
(連載2)平和は「手段」か「目的」か
西尾 亘
会社役員
むろん、手段をむりやり「目的」とこじつけた場合には、なんらかの「責任」は生じるかもしれませんが、「責任」といってもいろいろです。議会で野党が与党をつかまえて叫ぶレベルの「責任」もあれば、国家百年の計レベルの「責任」もあります。そしてもちろん、人類史的レベルの「責任」もありえます。この「責任」のレベルは、そもそもの「目的」のレベルに対応するでしょう。高次の「目的としての平和」主義は、高次の「責任倫理」を引き受けているといわねばなりません。
このように考えれば、「手段としての平和」主義と「目的としての平和」主義の関係性が自ずと浮かび上がってくるように思われます。例えていえば、その関係性は「戦術(tactics)」と「戦略(strategy)」の関係性に相当するといえます。つまり二つの立場はそもそも次元が違う話なのです。いわば、こだわる次元が違うのです。戦略を持たない戦術が自己目的化することがいかに不毛であるか、を考えれば、目的を持たない「手段としての平和」主義が自己目的化することがいかに不毛であるか、も理解しやすいのではないでしょうか。「手段としての平和」主義の「弱み」は、それが活性化し肥大化すると、「政治」そのものを窒息しかねない恐れがあります。
むろん、「手段としての平和」主義は、無意味ではありません。それとして意味を持つ局面もあります。そうではない局面もあります。ただ、それだけのことなのです。対して、「目的としての平和」主義は、それがしかるべき視野で設定されたものであれば、個別の局面で揺らぐことがあってはならないものだといえます。「目的としての平和」主義にはそれだけの重みがあると言わねばなりません。その上で、この立場が持つとされる「弱み」については、個別の局面ごとに考慮されるべきなのです。その際、「手段としての平和」主義が補完的な役割を担うことでしょう。大事なことは、その順逆の理を見誤らないことです。
いずれにせよ、ちまたには、この二つの「平和」主義を混同した議論が多すぎるように思われます。以上、私は私なりの見解を述べましたが、どなたであれ平和を論じられる際には、自分は「手段としての平和」を考えているのか、あるいは「目的としての平和」を考えているのか、を自問されることが、建設的な議論の出発点ではないでしょうか。(おわり)
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