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2015-04-07 00:00
問われるのは沖縄政治の堕落の方だ
杉浦 正章
政治評論家
政治家にはstatesman(政治家)とpolitician(政治屋)の二種類があるとよく言われる。その責任を自覚し、自国の繁栄と国民の幸せのために、最良の道を模索し実行する人がstatesman。耳障りの良い言葉使いに長け、民衆の人気を得ることに力を注ぎ、自己の利益になるよう政策を実行する人がpoliticianだ。その姿が鮮明に出たのが、官房長官・菅義偉と沖縄県知事・翁長雄志との会談であった。菅が国家百年の計を見越して政治家らしく会談に臨んだのに対して、翁長はもっぱら「県民の扇動と政府への挑発」を意図した政治屋の発言を繰り返した。日本を取り巻く国際情勢は、例え知事レベルでも外交・安保感覚を持つことが不可欠になりつつあるが、この翁長の姿勢から見る限り、首相・安倍晋三は会談すれば利用されるだけである。普天間の辺野古移設をそれこそ「粛々」と推進するべきである。
会談とこれを報ずるマスメディアを観察して、つくづく思ったのが、まるでかつての安保闘争のようであることだ。朝日を中心に、地元の沖縄タイムズ、琉球新報など偏狭かつ急進的メディアが反米、反政府の立場から民衆を煽り続けている。結局安保闘争でのこの方式は挫折したが、今回も、その道をたどるだろう。最近、大誤報のほとぼりも冷めたと思ったか、明らかに露骨な反安倍路線に踏み切った朝日に至っては、「沖縄を捨て石にしてはならぬ」と感情論丸出しの社説を展開した。しかし、そこには大きな視点が欠けている。沖縄は現状維持が「捨て石」そのものなのであり、その「捨て石」の状況を大きく改善するのが普天間の辺野古への移設なのだ。人口密集地で「世界で一番危険な基地」と米軍ですら認める基地の返還は、沖縄のまさに悲願なのであり、辺野古は環境的にも、これを阻止するほどの価値は全く存在しない。人命が大切か、辺野古沖に生えている海草の類いが大切かと言うことだ。安保改訂は安倍の祖父・岸信介が命がけで実行し、日本繁栄の基礎を築いたが、安倍の立場は祖父と全く同じである。不退転の決意とは普天間移転のためにある言葉に他ならない。
会談で翁長は「県民に対して大変な苦しみを今日まで与えて、普天間の危険性除去のために沖縄が負担しろと。それは日本の国の政治の堕落ではないか」と口を極めて批判した。翁長はかねてから一部県民に媚びてか、政府を「日本政府」と呼んでいる人物だが、「堕落」発言からは「地方自治の堕落」しか感じられない。なぜ堕落かと言えば、地域の抱える問題の本質をそらしているからである。翁長の言う「大変な苦しみ」の象徴は普天間基地の存在そのものであり、それを除去して「何の苦しみ」も生じない海を埋め立てて基地を作ることは、「捨て石」ではなく「将来への希望」に他ならない。翁長は知事選、総選挙で「辺野古移設反対派」が勝ったと意気込むが、選挙の争点は「普天間移設」であるべきだった。策略的な選挙戦術の勝利に他ならない。それに翁長自身那覇市長時代には辺野古移設を容認していたではないか。選挙に有利と見ると、政治信条を変えるのは「政治屋への堕落」の最たるものではないのか。
加えて翁長は沖縄が宿命的に置かれている地政学上の立ち位置を全く理解していない。冒頭述べたように知事クラスでも外交・安保を勉強することが不可欠の国際環境である。普通の政治家なら昨今の沖縄が置かれている安保上の環境を無視できないはずだ。紛れもなく中国が虎視眈々と「沖縄県尖閣諸島」を狙っている現実をどう見るかだ。自分の県の一部が切り取られて、中国領となることを是認するような知事は「地方自治の堕落」以外の何ものでもない。今後、紛れもなく中国は海洋覇権を狙って東・南シナ海に進出するのであり、既に人民日報に至っては2013年8月に、「尖閣諸島はおろか、沖縄すら日本の領土ではない」と主張し始めているではないか。翁長は抑止力とは何かを政治学のイロハとして勉強した方がいい。傍若無人のごとく南シナ海に進出している中国を見れば、日本の抑止力が失われた瞬間に東シナ海に舌なめずりしながら、進出してくることは自明の理である。
それとも「日本政府のくびき」を外れて、中国の統治下に入りたいのなら、それを公然と主張すべきである。共産党や社民党、地元紙など左翼勢力の主張に同調して、事態をこじらせればこじらすほど、喜ぶのは中国である。翁長の「堕落」の基本は政府首脳との会談を使って、県民を扇動する手法そのものにある。新聞は菅と翁長の会談を「平行線」と主張したが、実態は「物別れ」に他ならない。物別れした以上、解決策を探すのは容易ではない。前知事・仲井真弘多が2013年に埋め立て許可を出したその方針を奇貨として、安倍は、扇動政治屋の言動にたいしては毅然(きぜん)として、かつ信念を持って「粛々と」対処すべきである。菅は翁長から「上から目線」と指摘された「粛々」という言葉を今後使わないというが、安易な妥協はすべきではない。本来粛々とは「静かなさま」に加えて「つつしみうやまうさま」を指す。翁長の「上から目線」の指摘は国語力の不足を物語る。多様な意見を「うやまい」つつ「粛々」と進めることが大事だ。
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