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2015-06-16 00:00
憲法学者の違憲発言に動揺は不要
牛島 薫
団体職員
先日の杉浦正章氏の論稿を読んで、五十余年の隔世があっても、大学の風景は変わらないものだと驚いた。「今の学生は講義への意欲が低い!」と嘆く教授陣も、かつてはそういう学生とそう違わなかったのではと思うと、中々考えさせられる。杉浦氏は法学者の現実離れした頑なな憲法観に警鐘を鳴らしておられるが、その感覚は、彼らの法学講義を最近まで聴いていた我々が日々の授業で感じていたところである。6月11日のテレビ「報道ステーション」の番組中で古館氏が「著名な法学者にアンケートをとったところ、その殆どが安保法制に対して違憲の疑いを持っている」という結果が得られた、と鬼の首を取ったような顔をしていた。しかしながら、法学者が概ねそのような姿勢であることは、我々のような生硬な学生でも知っていることである。今更3人が国会で何を言ったところで、安保賛成派が動揺するようなものでも、安保反対派がはしゃぎ回るようなものでもない。
そもそも、憲法を制定当初の趣旨に従って素直に解釈すれば、自衛隊の存在自体がありえないことだ。だが、結論ありきで、後に解釈を変えることができるのも、憲法の良い所でもあり、悪い所でもある。例えば、事例の数で言えば、憲法学者の方が政府や裁判所よりも遥かに私的「解釈改憲」が得意だ。「時代の変化に伴って新しい人権が生まれるのは当然だ」として、憲法制定当初は具体的な権利を意味していなかった憲法第十三条を拡大解釈してプライバシー権や環境権などを次々通説に押し上げたのは法学界の「解釈改憲」のいい例だ。時代の要請に応えて法理論の再構成を繰り返してきた彼らが、なぜか憲法第9条についてのみGHQ占領下の終わらぬ夢に浸かっているのは、甚だ疑問である。
ところで、砂川事件の自衛権が「個別的」か「集団的」かということについて、今更になって安保賛成派と反対派で論議になっている。最高裁は、集団的自衛権を含む日本の自衛権を肯定した旧日米安保条約を判断材料にした判決において、同条約を前提に単に「自衛権」と述べている。故に両者を「包括した自衛権」と考えるのが妥当だ。そもそも同判決で最高裁は「集団的自衛権」を「自衛権」から排除する事につき斟酌などしてはいないと考えるのが自然であり、集団的自衛権を同判例が含まないと考えるのは論理的に不整合である。上記の砂川事件後の政府見解が個別的自衛権に局限している矛盾を始め、政府見解の変遷を指摘する向きもある。しかし、如何に政府が判断しようとも個別具体の訴訟において裁判所が審査権を行使する限り、法的安定性は揺るがないし、立憲主義は何ら傷つかない。
そもそも政府見解を変更する事が法的安定性を損ない違憲とするのならば、吉田茂内閣の政府見解を以て自衛隊は生じえない。同様に、憲法制定当初の第9条の趣旨を貫徹するのならば、連合国資料が示す通り永遠に日本は完全武装解除である。言い換えるならば、時の政権や最高裁が時代に合わせて同条を解釈改憲(或いは解釈の回避・放棄)してきたのだ。年々現実との乖離が甚だしくなっていく頑なな現行憲法の条文とうまくやっていく上では、正道とは言えないが正当な政府による解釈変更は必要最低限の範囲でやって行かなくてはならない。最後になるが、集団的にせよ個別的にせよ自衛権は国家固有の権利であり、国家にとっての自然権のようなものである。仮に憲法が生存権を明記していなかったとしても、我々が本質的に生存権を剥奪されえないように、日本も世界各国と同じようにあらゆる自衛権を有している。他方、生存権があろうとも、生活保護を受給せず自殺する人を止められないように、自衛権があろうとも、行使せず自滅する国を止めることは出来ない。自殺を止めるには本人が生きようとしなければならないのと同様、我々も次の世代に日本を残すために安保問題や憲法改正に前向きになりたいところである。
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