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2017-05-17 00:00
憲法9条解釈論における「正義」への無関心について
篠田 英朗
東京外国語大学大学院教授
過去70年間、日本人は、憲法9条の平和主義を語り続けてきた。しかし、憲法の目指す平和が「正義と秩序を基調とする国際平和」であることには、だれも十分な注意を払ってこなかった。「平和」、「平和」、「平和」と繰り返すだけで、「正義」や「国際」に注意を払おうという試みは、70年間をつうじて殆ど行われてこなかった。憲法前文においても、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章がある。芦部信喜は、この前文の一句について、「国際的に中立の立場からの平和外交」に関する文章だという解説を施しているが(『憲法』[新版・補訂版]56頁)、どうしてそうなるのか、全くよくわからない。前文における「公正」は、英文では「justice」である。「justice and faith of the peace-loving peoples of the world」である。9条における「正義」も「justice」となる。英文では「Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order」だ。ちなみに、9条1項冒頭の目的宣明は、2項冒頭の有名な「芦田修正」と同様に、日本の国会議員からなる帝国憲法改正小委員会で挿入された。いずれにせよ、その趣旨は、GHQ草案の時点から存在していた前文の文章と連動している。
「Justice」というのは、正しい状態や行為を指す言葉で、中立的な外交を指す言葉ではない。9条に「正義」を入れるのであれば、前文もまた、「平和を愛する諸国民の正義と信念を信頼して」となるべきだったはずだ。「押しつけ憲法論を振りかざす日米安保容認の改憲論者を許すな!」と叫び続けてきた憲法学者たちは、アメリカ政治思想に根差した日本国憲法を、素直に読もうとしてこなかった。「Justice」という言葉は、アメリカ合衆国憲法の前文に登場する。「正義(justice)の確立」は、アメリカ人民が合衆国憲法を制定した「目的」の一つとして、あげているものだ。共通防衛で国内の平穏を保障して自由を守りながら、「正義の確立」を目指すと、合衆国憲法は宣言している。アメリカが正義の確立を目指していることを十分に知りながら、あるいは知っているからこそ意図的に、「正義」について語るのを回避しようとするのは、少なくとも憲法典に即した態度ではない。「正義」を無視しても「平和」であればいい、「一国主義」であっても「平和」であればいい、といった態度は、日本国憲法が排除することを宣言している非立憲的な態度である。
本来、日本国憲法の平和は、常に「正義」に裏付けられた平和であり、その「正義」は「国際」的に認められているはずの「正義」である。日本国憲法の「平和」を、「正義」と「国際」から切り離して解釈するのは、本来の趣旨からすれば、間違いである。さらに言えば、英語の「justice」が、「司法」も意味する語であることは、言うまでもない。たとえば「正義と秩序(justice and order)」という言い方をした際、それは「法と秩序(law and order)」とかかわる含意もあるように受け止めるのが、当然だろう。前文において「平和を愛する諸国民の正義(justice)と信念を信頼」するという場合には、そこに「国際的な法秩序を信頼する」という含意があることは、当然だ。ちなみに「平和を愛する諸国」という概念は、国連憲章においては加盟国を指す際に使われている。
9条においてもやはり、「正義と秩序を基調とする国際平和」とは「国際的な法秩序にのっとった平和」と解するべきである。重要な点である。強調したい。9条の目的は、国際法に従った平和の達成である。「戦争放棄」や「戦力不保持」は、目的達成のための手段であり、その逆ではない。 手段から目的に至る道筋には、国際法が案内人として立つ。戦争放棄や戦力不保持を独善的に定義して振りかざしたうえで、国際法にしたがった平和の妥当性を審査しようとするのは、反憲法的態度であり、反立憲的である。一部の憲法学者による、「憲法優位説により国際法を拒絶できる」、「憲法の平和主義で国際法を正すべきだ」、といった態度は、日本国憲法の本旨に反した非立憲的なものだと言わざるを得ない。
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