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2018-10-24 00:00
鄧小平の柔らかな手
鍋嶋 敬三
評論家
安倍晋三首相が10月25日から3日間、日本の首相として中国を7年ぶりに公式訪問する。日中平和友好条約が1978年10月23日発効して40年。思い出深いのは1年後、79年12月の大平正芳首相の中国訪問である。首相に同行した当時の取材メモを繰ってみると、北京の人民大会堂で首相と会談した最高実力者・鄧小平副首相のこんな言葉が残されていた。鄧氏「首相の訪中は、両国関係の発展(だけでなく)、国際的に非常に重要な意義を持つ」。中国にとって条約の最重要ポイントは「反覇権条項」であり、当時厳しく対立していた対ソ連戦略上、欠かせないものだった。79年初頭の米国との国交正常化と相まって、大平訪中は中国にとって極めて大きな意味があった。
大平首相が「近代化を進める中国の将来について、どういう自画像をお持ちか?」と問い掛けたのに対して、鄧氏は「今世紀末までに国民所得を持ち上げたい。(1人当たり国民総生産=GDP)1,000ドルくらいにもっていければと思う」と具体的な数字で答えた。1978年の所得が229ドルだった。鄧氏の改革・開放政策で中国経済は躍進、世紀末の2000年には959ドルと想定通りに飛躍した。2017年には8,836ドル(IMF統計)と38倍に跳ね上がった。日中関係の安定と通算3兆円以上の日本の政府開発援助(ODA)は中国の世界戦略上も大きな意味を持ったのである。その鄧氏と握手する機会があったが、筆者よりも小さく、柔らかな娘のような手の感触に驚いた。3回にわたる失脚と復活を経て最高実力者として権力を掌握した人物の手とは思えなかったからである。しかし、第二次天安門事件(1989年6月)で民主化を求める学生などの大規模デモを多数の犠牲者を出して弾圧したのは軍を掌握した鄧氏といわれる。民主派にとっては「魔手」でしかなかった。
10年前の条約30周年時にもe-論壇「百花斉放」に書いたことがある。条約交渉が4年もかかったのは 中ソ対立が絡む「反覇権条項」を巡って難航したためだが、当時の交渉責任者だった中江要介外務省アジア局長はこの条約の一番の意味は「日中相争わず」にあると指摘していた。しかし、その後の反日暴動、日本製品不買運動、尖閣諸島領海侵犯など中国の対日強硬策を見る限り、中国の側には「相争わず」の意思があったのか、問われる。当時の小論は、中国が直面する問題として内政面では経済格差の拡大、幹部の腐敗への国民の不満、社会の不安定化、外交面では軍備拡充によるアジア安全保障環境の悪化、さらに対日外交では歴史問題を背景にした反日気運、緊張の繰り返しを指摘した。
これらの問題は10年後の今日も変わらないどころか、尖閣問題や南シナ海での中国の行動を見れば深刻さを増している。最大の問題は中国の大国化につれて露わになってきた覇権国家志向である。鄧小平氏は条約批准のため来日した当時の記者会見で「覇権主義こそが国家間の不安定をもたらす根源だ」として「中国は強大な国になったとしても、決して覇を唱えません」と断言した。しかし、世界第2位の経済大国となり、軍備を大拡張している現在、習近平国家主席が「太平洋を米国と二分する」意思を示し、弱小国に返済不能な融資をして「債務の罠」に陥れて新手の「植民地主義」と批判されている。日本の世論も条約締結当時の「日中友好」ムードは冷め切っている。内閣府調査(2017年10月)では「中国に親しみを感じる」人は18.7%に対して、「感じない」は78.5%と圧倒的多数が否定派だ。中国共産党政権による反日政策や攻撃的拡張主義を日本国民は経験を通じて学んだのである。日中間で「平和」「友好」「親善」などの巧言が費やされようとも、日本国民が手放しで受け入れないのは、この40年間の歴史を「鑑(かがみ)」としているからである。
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