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2007-06-25 00:00
させたのか、したのか-沖縄戦での集団自決
角田勝彦
団体役員・元大使
6月23日は、沖縄戦終結62年目の「慰霊の日」だった。昨年12月11日の本欄への寄稿「沖縄対策は、暖かく丁寧に」でも記したように、私も沖縄には特別の思い入れがある。昨秋は、座間味島の村長以下59名の集団自決の場所を訪れたが、あらためて襟を正した。
さて高校教科書検定で沖縄住民の集団自決に「日本軍の強制があった」とする表現が削除・修正されたことに沖縄では反発が広がっている由で、NHKなどが大きく報じている。「慰霊の日」式典での平和宣言で、仲井真知事が、参列した安倍首相らを前に、「沖縄戦の真実の姿を次の世代に伝え」と訴えたのも、その一環であろう。県民などのお気持ちは充分に理解する。安倍首相が、今回の修正は専門家の意見による旨を簡単に答えたのは、近付いている参院選への配慮もあろうが、県民が蒙った惨苦への思いが基本だろう。
しかし、「させた」のと「した」のとは、やはり違う。物理的強制と心理的強制も、やはり違うのである。「日本軍の命令」があったか、なかったかは、現に、裁判でも争われている由だが、明確にすべきものである。「あった」のなら教科書検定意見は間違いになる。「なかった」のなら、県平和祈念資料館の「日本軍の強制による集団死」という表現(6月24日付朝日新聞)は改めた方が「真実の姿」に合致するだろう。もちろん、「した」ことになっても行為者に責任はない。人は一般的に自分の行為に対して責任があると考えられているが、責任は自由意志を前提とする。他行為可能性(構成要件に該当する違法な行為を回避できたと期待しうること)が少なくなればなるほど、自由意志は制限される(物理的強制では自由意志は完全否定される)。刑法上も同じである。沖縄戦における集団自決は、内的にも外的にも自由意志が極度に制限された状態で行われた。生き残った行為者に責任はない。
それでは誰の責任だろうか。ここに「日本軍」の名が出てくる。沖縄県平和祈念資料館は、軍機密を守るため住民が米軍に投降することを許さなかったとも記している由である。女子どもの場合にも適用できる理屈だろうか。東条内閣といえども、1944年7月のサイパン陥落後、老幼婦女子を初めとする沖縄住民の本土などへの疎開に努めたのである。
近代戦は総力戦である。ピカソのゲルニカで有名な無差別爆撃は、東京大空襲の例を見るまでもなく、ありきたりの戦術になった。極めつけは、広島・長崎への原爆投下である。鉄の暴風と恐れられた沖縄への艦砲射撃も、その延長である。地上戦でも、米軍はいたるところで洞窟へ手榴弾を投げ込んだり火焔放射を行ったりした。少なくとも当初は日本軍と住民を分ける余裕はなかった。また敗走する日本兵による住民への加虐もあった。
沖縄戦は1945年3月26日座間味島上陸から始まり、組織的戦闘は6月23日終了した。その後も散発的抗戦があった。惨禍は筆舌に尽くしがたい。東京裁判でA級戦犯が、イラク裁判でフセインらが死刑に処せられたように、惨禍の責任者を求めるのは人の常である。しかし、釈然としなくても「真実の姿」は尊重すべきである。「した」と「させた」を混同すること、個人の犯行をすべて組織(つまり最高責任者)の責任とすることは、慰安婦問題に通じる危険であろう。心情や信条により「真実の姿」を歪めてはならない。
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