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2019-03-08 00:00
平成の終わりと中国の天安門事件
山田 禎介
国際問題ジャーナリスト
新元号は2019年4月1日に発表され、5月1日に改元され新年号となるが、日本で平成時代(1989年1月8日~2019年)を回顧する場合、多くのメディアが、「平成は、国際社会でのベルリンの壁の崩壊(1989年11月9日)から始まった」とのステレオタイプの報道を、ごく当たり前のように、繰り返し報道しているように感じる。しかし、日本でいう平成時代の幕開けには、国際社会にはもっと深刻な大事件があったことを忘れている。それは1989年6月4日の中国の天安門事件の悲劇だ。しかもこの天安門事件が、遠く離れたベルリンの壁崩壊・東ドイツの終焉につながるものと現代では理解されている。いまその年号平成が終わろうとするとき、改めて天安門事件という中国の悲劇と、壁崩壊という東ドイツの体制終焉を思い起こす。
ベルリンの壁崩壊は、東西冷戦体制からの雪解け、東欧の春に続く歴史の必然ではあったが、壁崩壊への究極のダメ押しは、はるかこの中国の天安門事件であったことに、日本では多くのひとが気付いていないのではないか。当時、東ドイツはホーネッカー政権まで旧プロイセンからの官僚構造、ナチのゲシュタポを想起させる秘密警察シュタージが、民衆相互監視による体制擁護の走狗を務めていたものの、ようやくほころびが出てきた時代。それまで都合の悪い情報は国民に封印してきた東ドイツも体制維持に危機感を覚え、あえてはるか中国の天安門事件の映像をテレビ放映しているのだ。この放映はあたかも東ドイツ民衆に対して、国家に逆らえばどうなるか、という脅しともいえよう。
しかし、東ドイツの空気はすでに変わっていた。自由を求めるライプチヒの大デモ(1989年10月9日)では、東ドイツ人民軍は鎮圧指令を無視、天安門事件での中国軍のようには動かなかった。それは東ベルリン・アレクサンダー広場の何百万人もの大デモ(1989年11月4日)、そしてその直後のベルリンの壁の崩壊につながった。日本で言えば平成の始まりに起きた中国の天安門事件は、実にベルリンの壁崩壊と連鎖している。だが多くの日本人には、天安門事件とベルリンの壁崩壊との連鎖は、夢想だにしないことのようだ。中国とドイツとは、まるで20世紀初頭の英作家キプリングの「東は東、西は西」のままにとらえているのか。
またかつて平成が始まったあとのメディアがとらえた昭和史というものも、二次大戦終了後のほとんど戦後オンパレードというものも気になることだった。実は昭和ひとけたは、バラ色から始まろうとしたものの、灰色の戦雲、戦火へと広がった戦禍の時代だった。ある意味、元号でとらえる歴史には落とし穴があり得ることを自戒すべきだろう。
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