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2019-08-01 00:00
(連載1)「主権者教育」のあり方を問う
篠田 英朗
東京外国語大学大学院教授
参議院選挙の投票率は低調で、特に若年層の投票率が低かった。そこで「主権者教育」の効果が問われている。だが、そこで話題になる、「主権者教育」とは何なのか。2016年の参議院選挙から選挙権年齢が18歳に引き下げられたことを受けて始まった新しい学校教育を指す概念だ。最近はよく聞く言葉になっているかもしれない。だが投票率の低調さを見るまでもなく、深く浸透しているようには見えない。
文部科学省は、「青少年の健全育成」の一部に「主権者教育の推進」を入れ、「単に政治の仕組みについて必要な知識の習得のみならず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一員として主体的に担う力を育む主権者教育を推進」している。投票率向上を狙っているはずなのだが、それだけではない、という意図が、最初から「主権者教育」の目的として強調されている。そのせいだろうか。「主権者教育」の内容は何なのかと思って文科省提供の情報を見てみても、ひどく説教じみたものにしか感じられない。「主権者かくあるべし」といった精神論が多く、若者が投票に行きたくなるような魅力を感じさせるものには見えない。
それにしても「主権者教育」というのは、誰が考え出した言葉なのだろうか。「主権者」を教育する、というのは、奇妙な発想だ。「主権者」は、ヨーロッパ絶対王政の時代に専制君主を指す言葉として使われ始めて以降、長い歴史の中で、様々な意味を持たされた。だが、多義的だとしても、最高権力者である主権者を教育する、というのは奇抜な発想だ。「主権=最高権威」を持つ主権者を教育する権威を持つ人物とは、いったい何者なのか?主権者とは、文部科学省の教育によって作られるものなのか?日本国憲法の「三大原理」の一つが「国民主権」であると主張する勢力が、やたらと「主権者である国民」の概念を振り回したがる。意味もよく考えず、言葉の整合性も考えず、お題目として「主権者は国民だ」スローガンを振り回す傾向は、日本特有のガラパゴス文化だ。
どうやら「主権者教育」の概念も、そうした日本のガラパゴス文化と深く関わっているように感じる。私は、憲法学者が広めてきた「日本国憲法には三大原理がある」説には、根拠がない、と主張している。憲法前文には、ただ一つの原理しか「原理(principle)」として書かれていないので、憲法「一大原理」が正しい、と主張している。日本国憲法が「この憲法はかかる原理に基づく」と宣言している「人類普遍の原理」とは、「国政は、国民の厳粛な信託による」という理念である。これは「人民の人民による人民のための政治(その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する)」と言い換えられているが、その根本には、「信託(trust)」という概念がある。社会契約論を示す「信託」概念を不当に貶めて、「要するにすべては国民主権論の話さ」と言いくるめようとするのは、ほとんど陰謀である。(つづく)
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