ホーム
新規
投稿
検索
検索
お問合わせ
本文を修正後、投稿パスワードを入力し、「確認画面を表示する」ボタンをクリックして下さい。
2020-04-03 00:00
(連載2)新型コロナウイルスをめぐる国際世論は生産的であれ
武田 悠基
日本国際フォーラム研究員
この関連で、世界保健機関(WHO)は、2015年に新型感染症の名称の付け方について、その名称のイメージから特定の人や地域に及ぶ「不必要な不利益を最小化するように」との指針を出している(WHOウェブサイト "WHO issues best practices for naming new human infectious diseases” 2015年5月8日付)。この方針に各国とも異論はないであろうし、既存の地名を伴う感染症名(エボラ出血熱、中東呼吸器症候群、スペイン風邪等)も今後は言い換えが検討される可能性もある。だがこれは正式名称の話であって、今回のように、新型ウイルスの名称が「COVID-19」と決まる以前に、もっぱら中国、韓国、日本の間で感染の嵐が巻き起こっているかのような報道がなされ、その結果、このウイルスが東アジアという特定の地域と結び付いたイメージで定着してしまった。ある地域への負のイメージのレッテル貼りは不毛であるが、残念ながらこうした騒動にはつきものである。
他方、疑似・比較文化論やレッテル貼りとは似て異なるのが、事態の対処をめぐる個別の国家体制のあり方に関する真摯な議論である。たとえば、ペルーのノーベル文学賞作家バルガス・ジョサが、今回のコロナウイルスについて「中国で発生したウイルス」であり、「中国が独裁ではなく、自由で開かれた民主体制であったなら、ここまで悪化しなかった」とスペインの新聞紙上で論じたのであるが、こうした指摘はそれなりに傾聴に値する。もっとも、駐ペルー中国大使館はその翌日付で「ジョサ氏の無責任な発言について」と題して大使館通知を出し、「事実無根の対中批判であり、表現の自由は尊重するが、中国が人類の共通敵である新型ウイルスと全力で戦っている今、あなたは欧州やペルーに対して何の貢献をしたのか」との抗議を表明している。ジョサ氏はかつてアルベルト・フジモリと対決した大統領候補でもあるから、半ば公人的な扱いになるとはいえ、政府機関が一個人に対して行う批判としてはたいそう辛辣な内容である。中国の世論戦はこうしたところにも及んでいるのだ。
いずれにせよ、こうした地球規模のパンデミックをめぐり、特定の国や地域の状況や対応について論評すること自体はもとよりとがめられることではない。むしろ重要なことは、その目的が、一時的な自己満足や現実逃避ではなく、事態への対処に一歩でも二歩でも資するような生産的な方向でなされることであろう。ウイルスは人を選ばないし、国境で留まりもしない。そうしたウイルスに対し、人間を保護する体制として、国家がいかなる対応を取れるのか。これが、世界がこの時代のあらゆる国々に問いかけているシンプルかつ本質的な問いである。
人間が抱く「わからないことへの不安」は、ツキディデスの時代から確認されている、安全保障上の不安定要因である。そうした古くて新しい試練に、人類は今また、直面している。日本は他国に先駆け、今回のウイルスへの対応を進めてきたが、少なくともこれまでは感染拡大の抑制と国民生活の強制的管理のバランスをとることができていたが、予断は許さない。保健衛生分野での日本の国際協力は高い評価を受けてきただけに、今後の動向が注目される。(おわり)
投稿パスワード
本人確認のため投稿時のパスワードを入力して下さい。
パスワードをお忘れの方は
こちら
からお問い合わせください
確認画面を表示する
記事一覧へ戻る
公益財団法人
日本国際フォーラム