われわれ日本人は、自分の属している社会そのものが自らを迫害してくるという状況についてリアルに想像することは難しいかもしれない。だが、学校、職場、夫婦関係、法廷、そして日常生活のあらゆる局面において、黒人であるという「自分の努力ではどうにもならない属性」だけでマイナス評価を押し付けてくる側面が米国社会にあることは否定しがたい。つまり、黒人たちにとっては、米国社会そのものがときに「自分たちを人種で区別し、不文律において損害を与えてくるシステム」なのである。黒人が暴動を起こす心理は、そうしたシステムへの怒りに他ならないのではないか。暴動で破壊される米国の「街」は、米国社会という自らにのしかかる抑圧あるいは搾取の象徴であるということだ。
ところで、政治理論の教科書的なおさらいをすると、国家は、主権者である国民との社会契約を通じて主権の一部委譲を受け、統治行為を代行する機能を有している。そして、国家が主権者の意に反して権力の乱用を行った場合には、主権者は抵抗権を行使し、政府を交代させる権利を有することになる。ここには、「市民対国家」という構図が見て取れるわけだが、しかし米国が抱える人種差別問題は、「市民対市民」の対立の構図を浮き彫りにするものである。
すなわち、相対的に「支配的立場」にある白人に対して、相対的に「被支配的立場」にある黒人がある種の「抵抗権」を行使しているといった構図である。もちろん、両者の間に社会契約が結ばれているわけはなく、少なくとも制度上は両者の間に上下関係や支配・被支配の関係はない。にもかかわらず、アメリカでは、デファクトの関係として両者の間に上下関係や支配・被支配の関係が成立しており、そうした関係への異議申し立てが今回のような事件を契機に一気に暴発するというのが、アメリカ社会で間欠泉のように発生している状況である。これは、中国共産党政府が明確な国家的意思をもってチベット人やウイグル人を弾圧し、それに彼らが抵抗しているといった構図とは様相を異にしている。
問題の根源は、アメリカが近代的理念をかかげて建国した当初、そもそも主権者には白人しか含まれておらず、ワシントンやジェファーソンといった建国の父らですら、黒人奴隷を空気のような感覚で所有していたという歴史的原罪がアメリカにはあるということである。そうした状況は、1960年代の公民権運動以降、制度的には、漸進的に改善され、すでに黒人大統領も選出されるに至ったわけだが、社会のそこここではいまなお執拗な人種差別が蔓延しているというのが現状である。実のところ、こうした「非制度的」な差別の解消というのは、個々の人間の心情にも関わる部分があり、解決が非常に難しい。白人にとっては、この問題が解決されることは、人口比でのマイノリティに転落する確定的な未来を前に、極めてストレスフルな社会的変化になる。白人自身が発する進歩的な発言とは裏腹に心理的な抵抗感は根深いものがあろう。 しかしさらに根源的に考えれば、多くの黒人は、米国社会が持つ自浄力と民主主義を依然信じているはずである。それはアメリカという存在が実体としての国家であるとともに、麗しい近代的諸理念の結晶でもあるからだ。アメリカは矛盾にみちた二面性を併せ持つ存在ではあるものの、試行錯誤を通じて、そうした理念と実態の間隙を自分たちの力で埋めていく、という理想のシナリオこそが、米国市民を肌の色を超えて結びつける唯一の靭帯であるはずだ。我々は、黒人殺害事件や暴動のシーンを短絡的に切り取り批判するのではなく、米国社会で起きている黒人と白人による産みの苦しみを見つめ、その深層からアメリカ社会のあるべき姿を展望してくべきではないだろうか。(おわり)