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2021-02-12 00:00
政治への「天職」を持つものが国会議員たるべきだ
伊藤 洋
山梨大学名誉教授
マックス・ウェーバーの名著「職業としての政治」は、ドイツ帝国が第一次世界大戦に惨敗した翌年の1919年3月、母国の敗戦に自信喪失し茫然自失の学生ら若者たちに向かって語った講演の実録である。そこで語られたいちいちは今でも政治家や政治の近辺に生きているものにとって必須のモラルと見識を要求するものになっている。宮澤喜一首相が政界を引退した後に、彼の人生で最も影響を受けた書物として本書を上げていたのを未だに印象深く記憶している。
ウェーバーは語る。「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり抜いていく作業である。・・・自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場から見て――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切れる自信のある人間。そういう人間だけが『政治への<天職>を持つ』」(マックス・ウェーバー「職業としての政治」脇圭平訳 岩波文庫1984年刊)。
これは、この本の最後の部分の引用である。「現実の世の中が――自分の立場から見て――どんなに愚かであり卑俗であって」も「さりながら」と言い切れる人間だけが資格を有するというのだが、はたして今この国の「政治家」諸君にこう言い切れる者が与野党を含めても果たしてどれぐらい居るのであろうか。第一「より卑俗」であるのは「世の中」の方ではなくて「政界」の方であるとしたら何とする。
この講演が記録されたその時代にも「スペイン風邪」という名のパンデミックが世界を覆っていたのだが、それから1世紀を経たいま世界とこの国を覆っているCOVID-19パンデミックに際して、国民が我慢を強いられているまさにその時に、政治家が東京・銀座で深夜まで大人数での飲食をしていたという。それを政治活動と強弁してだ。こういう者が国民に向かって「それにもかかわらず!」などといっても国民を引き締められないのは当たり前だ。もし彼らが「政治への天職を持」っていないならば、今年の衆院選は彼らにとって厳しいものとなるであろう。
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