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2021-02-21 00:00
(連載1)韓国併合の歴史で考える伊藤博文と盟友井上馨のこと
山田 禎介
国際問題ジャーナリスト
近代日本工業化の夜明け、1900年(明治33年)の官営八幡製鉄所高炉完成式の遠景写真は各種の教科書にも載っている有名なものだが、その式典写真を拡大したものには、謹厳な伊藤博文の脇に井上馨のくだけた服装と笑い顔が目に付く。2年前に井上馨は蔵相を降りている。幕末・明治の歴史は、司馬遼太郎作のフィクション「竜馬がゆく」をメディアがけん伝したせいか、あたかも維新への舞台は坂本龍馬が一人で演じたかのようになり、多くの幕末・維新の人物が歴史の舞台から葬られて久しい。井上馨も初代首相となった伊藤博文の盟友として、幕末に相当な役割を果たしたのだが、いまはほとんど忘れられている。
また井上馨の盟友、伊藤に関して近年、「韓国併合に反対した伊藤博文」という論が急速に浮上する現象があった。現代社会はSNS波及で、歴史も「ああだから~こうなった」とのツーフレーズで片づけられる危険性に満ちている。「併合に反対した伊藤博文」というフレームアップも、実は桂太郎内閣による「韓国併合」(1910年)に対しての伊藤の考えであって、実は当時の欧州に見る帝国主義の他の方法(オーストリア・ハンガリー二重帝国=帝国・王国併用)などを参考に構想していたのではないか。初代韓国統監を1905年から務めた伊藤博文は、奇しくも併合の前年の1909年、ハルビンで暗殺された。さらに伊藤博文の併合反対は、反桂太郎とともに、当時の外交に大きくかかわった盟友、井上馨が欧州体験などで実感した帝国(主義)の在り方の影響を受けてのものではなかっただろうか。
最初に指摘したいのが2015年は、英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に幕末の長州、薩摩藩の青年が訪れて150周年の年だったことだ。この伊藤、井上ら5人の長州留学生を「長州ファイブ」と呼称する形で、改めて日本メディアが数多く取り上げ、近代政府を自分たちでつくるという青年たちの英留学にスポットが当てられた。そこには長州ファイブたちが、英国側の政策に載せられたものとの指摘はなかった。だが英国の植民地支配は巧妙で、ユニバーシティ・カレッジに留学させることは、英植民地の現地指導者育成が主目的だった。
1826年設立のユニバーシティ・カレッジは1859年にチャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表したことでも世界的に有名である。ノーベル賞受賞者を多数輩出している。なぜか最近は経歴で示さないが、小泉純一郎元首相も若き日に短期間、ここに学んだ。著名な例では、明治時代に外交官・政治家となった森有礼など、日本の近代化に大きな影響を与えたが、英国のユニバーシティ・カレッジ留学教育は、あくまで当時の大英帝国の植民地支配の方策の一つ。英国はアジア・アフリカの有能な青年をリクルートし、ユニバーシティ・カレッジで学ばせた。
長州藩士の井上馨は江戸遊学中の1862年、藩の命により横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船を購入した。そうしたマセソン商会との縁から井上馨は、翌1863年、伊藤博文、井上勝らとともにユニバーシティ・カレッジに学んだものだが、ジャーディン・マセソン商会こそ、この長州ファイブのお膳立てをした英政府の手先だ。井上馨が伊藤らに強く渡英を勧めたとされ、日本の歴史では自らの意思での「密航」とされるが、実は英国側は”手順”を踏んで彼らを留学に導いている。(つづく)
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