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2021-03-12 00:00
(連載1)頭でっかちなワシントン発の米中情報に危惧
山田 禎介
国際問題ジャーナリスト
バイデン米大統領の呼びかけで、インド太平洋4か国首脳による「日米豪印戦略対話(クワッド)」会合が12日(日本時間夜)、オンライン形式で初めて開かれた。バイデン大統領は、いまや米国の最大のライバル、中国の拡大を意識し、米国と価値観を共有する同盟国や友好国との連携を強く訴えた。また米国では、ブリンケン国務長官とサリバン安全保障担当補佐官が18日、中国外交トップの楊潔篪政治局員、王毅外相をアンカレジ(米アラスカ州)に招いて会談を行う。これはバイデン政権では初となる対中接触で注目材料だ。日本を取り巻く世界情勢は急を告げているようにも見えるが、わたしが懸念するのは日本メディアのある種の中国過大評価だ。それは、中国主導のある底流からきている。
1980年代後半、わたしがオーストラリア、ニュージーランドも取材範囲とする新聞社のジャカルタ特派員だったころ、東京本社外信部(国際部)で中国を専攻していた後輩が休暇でやって来た。現在は政治部にいるという彼に、「なぜ政治部に?」と問うと、「中国当局が永田町経験者を日本の特派員に求めているから」という答えだった。
つまり中国は、北京特派員には日本の自民党政界を知る者を求めている、ということだった。この後輩は間もなく政治部員から北京特派員になった。わたし自身はその後、別の新聞社に移籍し、ブリュッセルを拠点に、欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)を中心に取材を重ね、モニカ事件でビル・クリントン大統領が窮地に追い込まれた当時は、ワシントンの米新聞社にいた。米新聞社では毎日の編集会議に出て、世界のニュースが即、この米首都に集まるのをこの目で見ていた。
1960,70年代に新聞社・テレビのワシントン特派員には、欧州の拠点ロンドン同様、外信部出身だけでなく、政治部、経済部から必ず一人ずつ、もしくは複数が派遣されていた。だが当時、中国は文化大革命に続く動乱のころで、海外メディアでもとりわけ日本に門を閉ざし、特定の新聞社の一人特派員という微妙な時代が続いた。香港が閉ざされた中国情報の収集拠点となり、中国語にたん能な記者が配置されていた時代だった。やがて改革開放の動きのなか、中国が政治的、経済的に世界で注目されるにつれ、中国当局はこうしてメディアの特派員に、日本の米国特派員同様、日本政治を知る者を求め始めたのだ。もちろん日本側も、日中相互理解の一助にと、これに協力的だったようである。(つづく)
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