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2021-05-10 00:00
(連載1)国益としてのジェンダーフリー
葛飾 西山
元教員・フリーライター
本年の5月3日の日本経済新聞に宮崎公立大学・寺町晋哉准教授による「学校の中のジェンダー~個人の可能性に制約」という論考が掲載されていた。寺町氏の論文では学校管理職での女性の割合が低いこと(特に中学・高校では1桁台になること)を挙げ、それによって「校長は男性」というステレオタイプを子供が知らずに身につけてしまうこと、女子や女性教師のロールモデルが少ないという問題点を指摘された。そしてジェンダーステレオタイプの刷り込みによる個人の可能性の制限は、「ジェンダーを理解しましょう」「ステレオタイプはいけません」と教える学校の中でも起きており、学校の環境整備から始める必要性を説いておられた。
そう言えば、上野千鶴子氏や田嶋陽子氏になどによってジェンダーフリーが提唱されたのは私が学生であった1980年代のことと記憶する。1985年には男女雇用機会均等法が制定され、1999年には男女共同参画社会基本法が制定され、男女の別なく能力を十分に発揮できる社会の実現を目指した。あれからかれこれ30年以上経過した。令和の時代になって、なおも先の寺町論文のような実態が指摘されると、この問題をなおも根本的に是正できていない日本社会の体たらくさに開いた口が塞がらない思いである。
ジェンダー問題の是正に大きな進展を見ない原因はいろいろあろうが、私はもっと根源的なところに問題があると思う。そもそも識者や政策立案者の思考が「男性」「女性」という括りからどうしても抜け切れていなかったからではなかろうか。それは閣僚の「女性活躍担当大臣」という名称に端的に表れていると思う。「女性活躍」という名称から1970年代のウーマンリブの運動の延長線上にあったと思える。女性を何とかしようという発想にそもそも限界があったのではないか。別にウーマンリブ運動を否定的に見るわけではない。ただ日本は男社会の伝統的思考の桎梏が男女ともに根深く、議員や役員の「半数を女性に」と言えば、必ず「逆差別」としてのブレーキがかかるのも現実だ。しかしアクションを起こしてから30年以上経って、なおも遅々として成果が見えない以上、起爆剤として別の観点からのアプローチが必要ではないだろうか。異論は覚悟の上で、歯車を前に回すために言わせてもらえば、そもそも「女性」「男性」という括りが発想の根底にある限り、これ以上は物事は先に進まないのではないか。この簡単なことに早く気付くべきではないか。私は「国益」という観点からジェンダーステレオタイプを早急に突き崩してゆくべきと考える。
母集団1000人につき1人の有能な人材を登用すると仮定すれば、人口が多いほど有能な人材を多く確保できるのは当然である。若年人口がどんどん増えていた時代は、供給源が拡大し続けるため、有能な人材を男性だけに求めていても問題はなかった。しかし欧米も含めて若年人口の増加が頭打ちになったり減少に転ずると、有能な人材の供給自体が先細りになるのも当然で、母数が減少した分は何とかしてこれを埋めなければならない。ここで男性だけにこだわっていたり、女性を責任あるポジションに就けることを躊躇していると、能力の劣る男性で人数を満たさざるを得なくなる。そうなれば国家・社会の運営能力が低下するのは当然であろう。男女の性別で個人の能力にほぼ差がないのであれば、女性の活躍を後押しして有能な人材の供給源を確保しなければならない。日本の人口減少に歯止めがかからない状況で、女性が政治・社期での指導的地位への上昇を阻害したり、また女性が二の足を踏んで躊躇する社会の現状を放置したままでいることは、日本の国益を大きく損なう不作為以外の何者でもない。完全とはいえないまでも政治・社会での指導的立場の約半数を女性が占めている欧米の国々に対し、まだまだ男性に依存している日本はやがてその後塵を拝するようになるのではないか、いやすでにそうなっているのではないか。(つづく)
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