ロシアと違い中国は選挙に介入しなかったが、この国はパックス・アメリカーナへの挑戦者の筆頭である。中国は東シナ海、南シナ海、台湾海峡周辺といった自国近隣の水域で独自のレッドラインを一方的に設定し、それは中華モンロー・ドクトリンとまで言われている。そうした中でアメリカはウイグルと香港の自由に関して国際的なルールと規範のレッドラインを敷いている。中国にとって、後者はアメリカ主導の本土攻撃に思えるかも知れない。実際に王維外相は日本に、米英EU加が新疆と香港での人権擁護を訴えるために形成した連合に入らないように要求した。また中国とアメリカは情報テクノロジーの覇権をめぐっても対立を深めている。一連の対立に鑑みればロシアがトランプ氏を、イランがバイデン氏を支援して選挙介入をしてきたにもかかわらず、中国が2020年の選挙に介入を躊躇したことは特筆すべきことだ。イランと同様に中国もバイデン氏を支援してポピュリストのタカ派の弱体化を試みてはいた。しかし中国もイランも民主党の大統領であればハト派であろうと夢想したりはしない。リアリストの中には、米中間には表の対立とは裏腹に水面下の関係があることを語る向きもある。中国とリベラル民主主義諸国との間でのそうした相互依存が語られる際に、この国に対する我々の脆弱性が注目されがちだが、その逆もあるのだ。
よってNIC報告書で中国について記された箇所を見てみたい。北京政府は国営メディアを通じてトランプ氏の外交政策やコロナ危機対策に対するネガティブ・プロパガンダを流しはしたが、それらは選挙を標的にしたものではない。押えておくべきことは、中国は選挙介入によってアメリカとの関係を致命的に悪化させるリスクを恐れたということだ。習近平氏は、プーチン氏が2016年に行なった選挙介入による米露関係の悪化から教訓を得ていた。そして中国は、トランプ氏の単独行動主義の脅威をイランほど切実には感じていなかったことにも留意すべきである。北京政府にとってアメリカを同盟国から孤立させられるトランプ氏は、ある意味ではバイデン氏より好都合でもあった。中国は地政学と価値観のレッドラインを描き替えようとしているが、それでも外交関係を危機にさらしてまでアメリカの最終的なレッドラインを犯そうとは考えていない。
バイデン氏はアメリカの外交政策を立て直しつつあるが、アフガニスタンに関する彼のレッドラインには疑問の余地がある。バイデン氏はトランプ氏の撤退計画の日程を後伸ばしにしているが、遅かれ早かれタリバンがカブールを奪還する可能性があるなら問題解決にはならない。その場合、アメリカが成し遂げたことは全て無駄になってしまう。孤立主義の有権者は左右に関係なくトランプ流の損益思考に陥りがちで、バイデン氏はそうした国民の意識を新たに方向づけてアメリカの国家安全保障上のレッドラインを守る必要がある。外交問題評議会のリチャード・ハース氏は「アフガン政策には長期的な観点からの理解が必要で、特に重要なことはテロリストを相手にした明確な勝利よりも、現実的なコストで現地政府の敗北を回避することである」と論評している。さらにイギリスのトム・トゥーゲンダット下院議員は陸軍でのイラクとアフガニスタンの従軍経験者として「アメリカとNATOが少人数の軍事的プレゼンスさえ維持する意志もないと見れば、他の場所でも敵対勢力が勢いづく」と主張している。彼らの懸念はアメリカの国家安全保障関係者の間でも共有され、本年3月にSIGAR(アフガニスタン復興担当特別監察官)が出した報告書にもそれが反映されている。SIGAR報告書では、アフガニスタンが自前の財源で治安を維持できるほどの自立には程遠く、兵員撤退によりリスクが増大することが明言されている。昨年2月29日の米・タリバン合意より、ANDSF(アフガニスタン国防治安部隊)へのテロ攻撃は急増している。こうした事態にもかかわらず、現地の治安部隊を支援する米軍の兵員数も予算も現在では抑えられている。さらに和平交渉の見通しが不透明なこともあり、アメリカが民政と軍事でのプレゼンスを低下させてしまえば安全保障環境は悪化し、それによって腐敗対策、公衆衛生を含めた社会経済開発、麻薬対策、そして女性の権利といったアメリカ主導の再建計画にも支障をきたすようになるだろう。
そのような治安の悪化を始めとした様々な問題に鑑みて、SIGAR報告書ではアメリカと主要援助国が支援体制の構造改革と予算増額によって、計画の監督能力の向上を図るよう提言している。しかし、それで力の真空が根本的に解決するわけではない。バイデン氏はトランプ氏と同様に、厭戦気運に浸る有権者との危険な妥協を図っているように思われる。しかし、それではアフガニスタンに関するアメリカのレッドラインは脆弱になるだろう。民主主義は納税者自身による統治に由来するが、逆説的なことに納税者は必ずしも公共の問題について責任感があるわけでも意識が高いわけでもないからだ。時に納税者は総体的な視座を見失い、国家や国際社会の公益を犠牲にしてしまうこともある。長年に渡って上院外交員会でのキャリアを積んだバイデン氏は、アメリカの外交指導者としてオバマ氏やトランプ氏よりもはるかにプロフェッショナルであるが、それでもなおアフガニスタンでの現大統領のレッドラインは再考を要する。(おわり)