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2021-06-01 00:00
(連載2)「五輪集団観戦」に潜む構造的な教育問題
葛飾 西山
元教員・フリーライター
しかし教育委員会から学校現場に降りてくる段階では、「ボランティア」という名の「奉仕」「貢献」に置き換わり、学校現場での奉仕活動の推進と相俟って教育が行われてきた。そこでは「趣旨に賛同できないので参加しません」と表明することは集団の輪(和)を乱す行為となり、さらに教師の指導に従わない行為となるため、事実上不可能である。こうした蓄積の上で児童・集団観戦は行われるのである。
また五輪集団観戦は出席日数にカウントされることになっている。参加しなければ欠席となる。これは児童・生徒・保護者にとっては大きな圧力である。一応、観戦したくない児童・生徒には学校での補習授業に出ることで出席扱いとするよう通達が出ているが、果たして「補習授業」を希望しますと正面切って言えるかどうか。こうした活動は評定扱い(簡単に言えば54321の通知表評価)はされないが、受験に際して作成する調査書には「特別活動」や「担任所見」欄で奉仕活動への取り組み具合が記されることになる。先生も人間だからあえて悪く書くことはしないが、積極性を大きく書かれる児童・生徒と、書かれない児童・生徒とでは、入試での合否結果に関連してくることになる。私も含め、中学生の時に「調査書に書くぞ!」という脅し文句をかけられた人は少なからずいるのではないか。今ではこのような高圧的な脅しが学校現場で出ることはないが、それでも学校と児童・生徒の抗えない関係性は昔から不変である。そのため児童・生徒は特別活動において消極的な面はできるだけ見せないよう心掛ける。このような関係性が保持された状態で集団観戦に行かざるを得ないのであれば、それはいつかの学徒動員と何が変わろうか。もちろん「完全自由希望制」で、「出欠の対象にはしない」というのであれば、話は別だが。
学校現場の中でも違和感を持ったり、異論を腹蔵したりしている教員はいるようである。しかし公立学校は教育委員会(正確には教育長による通達)にで動かなめればならない以上、教員は管理職に対して、管理職は教育委員会に対して異を唱えることはできまい。これも学校という教育機関にまつわる抗えない上下の関係性である。だから現場の教員は「戸惑っている」のである。何かあれば教育委員会が全責任を負うのであろうか。教育委員会は「最終的には現場の判断で」と留保を付ける。当然、学校現場では一教員が責任を負えるものではない。かくして責任の所在は極めて曖昧なままで実施に向けて突き進んでゆく。
平時の観戦なら、多少、違和感を覚えつつも目くじらを立てることもないが、現今の状況ではそのような「イベント会場に繰り出すこと」がウイルス感染のリスクを生じる可能性がある以上、児童・生徒の健康・安全を第一に考えるべきである。どうも日本は教育現場で発生する事故は大目に見られる傾向がある。生命に直接関わる熱中症からしてそうである。罹患するかどうか分からないコロナウイルスになると危機感もなおさら希薄になるのであろか。それとも他人の子だからであろうか。学校の教職員、教育委員会、行政の関係者は「自分の子なら進んで参加させられる」のであろうか。確かに教育的効果は大きいかもしれない。しかしそのような機会はこれからいくらでも作ってゆこうと思えば作ってゆける。学校は児童生徒を「教育する」立場である以前に、児童・生徒の生命を保護者から「預かっている」立場である。東京五輪の開催・中止、無観客などとの議論と関係なく、大切な生命を預かっているという原点に立って「合理的に」判断されることが望まれる。(おわり)
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