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2021-06-19 00:00
プーチン氏の対日戦略とは何か? ロシアの「平和条約」提案に警戒を
常盤 伸
JFIR上席研究員、東京新聞外報部次長
日露の北方領土交渉は、交渉史上最も低い水準のまま、再び完全に暗礁に乗り上げている。そのなかにあって、最近の一部日本メディアの報道には、目を疑った。プーチン大統領は4日、各国通信社トップとのオンライン会見で、日本との平和条約交渉について領土割譲禁止条項を盛り込んだ憲法改正を考慮する必要があるが「交渉を中断すべきとは思わない」と述べた。この発言について、同メディアは、「(憲法改正で)日本との領土交渉は禁じられたとのロシア政界の主張を覆した」「関係の決定的悪化は避けられた」などと意味付け、プーチン発言を驚くほど前向きなトーンで、長い解説記事も含め、数本の記事とともに大々的に報じたたからだ。このメディアは、自らを「日本の代表的ジャーナリズム」と規定し、実際にそれなりの影響力があるだけに、ロシア側も注目しており、事は深刻である。
既に、日ロ双方の高官が明らかにしているように、ロシア側は領土問題を盛り込まない平和条約を結ぼうと提案している。ここで復習しておくと、日ロ間で国際法上残された問題は、北方四島の帰属問題の解決以外にない。1956年に日ソ間で平和条約が締結できなかったのも、この問題で合意できなかったためだ。つまりプーチン氏らの提案する「平和条約」は、本質的には平和条約ではないということなのだ。これは何を意味するのか。つまるところ、ソ連時代からロシアが対日戦略の大目標としていた「善隣条約」のような条約締結がプーチン政権の狙いだろう。
一部の専門家や政界関係者を除けば、忘却の彼方に追いやられているが、幸か不幸か、一つの草案は明らかになっている。冷戦時代のソ連・ブレジネフ時代の1978年1月、当時のグロムイコ外相が、「日ソ善隣協力条約」の草案を、モスクワを訪問した、当時の園田直外相に押しつけるように提示した。さらに日本の同意なく、2月下旬、「イズベスチヤ」紙や「プラウダ」紙に一方的に公表した。その第3条では「ソ連と日本は締約国の一方の安全に損害を与え得るいかなる行動のためにも自国の領土を使用させない義務を負う」とあり、第4条には、「締約国は、そのいずれかに対する侵略行為を第3国にとらせるようないかなる行動を差しひかえる義務を負う」と明記されている。
これらが意味することは、在日米軍基地の撤廃をはじめ、日米同盟の維持を不可能とさせる措置を義務付けるなど、「善隣協力条約」によって日本に対する恒常的な内政干渉が可能となるということだ。非礼な内容であるとして、日本側の憤激を巻き起こした。ロシア外交研究の泰斗だった故木村汎・北海道大名誉教授は、「日本をまるでソ連の衛星国ないし同盟国とみなすがごとき類のもの」(「日露国境交渉史」)と批判した。
プーチン氏の対日戦略の中心にあるのは、兎にも角にも日米同盟の弱体化、日米離間にあるのは間違いない。バイデン大統領が初めて参加し英国で開かれた先進7カ国首脳会議(G7サミット)や、ブリュッセルでの北大西洋条約機構(NATO)首脳会議でも示されたように、ロシアは中国と並んで欧米など先進民主主義諸国と厳しく対立している。しかし日本はG7の一員だが、主体的な対ロ批判を避け、経済協力を粛々と進める構えだ。プーチン氏にとって最も都合の良い「西側」政権といえる。交渉を中断し、わざわざ関係を悪化させるなど、ありえない選択肢だ。
「平和条約」という名称であれ、「善隣友好条約」という名称であれ、もしロシアが日本と前述のような条約を締結すれば、現在も対米戦略上の意義が最も大きい。日米安保体制は機能しなくなり、日米同盟は瓦解するからだ。これにより日本は、事実上、「中立的」な地位に置かれ、民主主義国による国際的な対ロ包囲網の一角が崩れる。これだけでも、ロシア側の大勝利だが、「善隣条約」締結で経済大国日本との大型プロジェクト、技術協力など経済・技術協力が大幅に拡大すれば、制裁などで苦境にあるロシア経済にとって恵みの雨となる。さらには人的交流や、社会、文化、芸術など各方面交流の活発化し、親ロ雰囲気の醸成にも役立つ。このほか、国力の差が歴然としている最大のパートナー中国へのけん制にもつながり東アジア戦略上の意義も大きい。支持率低下に悩むプーチン政権にとって、大変な追い風となるだろう。実現可能性は皆無に等しいが、プーチン氏にとっては、内政外交の突破口となりうる夢のようなシナリオであることは確かだ。
逆に言えば、日本側にとってこうした条約の締結は、国益に壊滅的な打撃を与えることは言うまでもない。北方領土問題は永久に棚上げされ、軍事大国ロシアによる恒久的な内政干渉を招き、もはや自主的な外交政策を行うことすら不可能になる。そうなれば、欧米など民主主義諸国からの日本への信頼は大幅に低下し、事実上の孤立状態に置かれるだろう。日本にとっては、文字通り「亡国への道」以外のなにものでもない。まさに最悪のシナリオである。
プーチン氏は会見で、「日ロは戦略的に平和条約締結に関心がある」と強調したが、この言葉も額面通り受け止めてはいけない。民主派勢力を「過激派」として徹底的に弾圧し、ますます権威主義を強める現在のロシアと、アジアの中で民主主義を主導する役割が国際的にますます期待される日本との戦略的な利害が一致しているなどとは、到底言えないことは明白だ。むしろ、根本的に対立しているというべきだ。
そもそもプーチン氏は、冷戦を終結させたゴルバチョフソ連大統領や、ソ連を解体させた新生ロシアのリーダーとして欧米や日本との共通の価値観を掲げたエリツィン初代ロシア大統領の外交路線を、冷戦時代の旧ソ連さながらに、米国を中心とする民主主義陣営との対立路線へと全面転換させた。米国と並ぶ強大な核戦力や、極超音速ミサイルなど各種新兵器の威圧を背景にして、習近平氏の中国とともに、リベラルな国際秩序や普遍的な価値観への挑戦状を叩きつけているのだ。
こうみてくれば、憲法改正の有無に関係なく、プーチン氏が日本との平和条約交渉を中断する考えなど毛頭ないことが分かるだろう。
もし交渉中断なら、ロシアが最も望む「8項目の経済協力」や北方領土での「共同経済活動」などの経済協力の推進も困難になる。そればかりか外交戦略上もマイナスだ。「ジュニア・パートナー」となる危険性を孕んだ対中関係では、かろうじて握っている「日本カード」を失い、東アジア外交で不利な立場に置かれるのは明白だ。一方、日本側の事情はどうか。安倍晋三前政権の北方領土交渉方針を継承した菅義偉政権は、交渉中断となれば、対ロ政策の「大失敗」を認めることに等しい。日ロ両政権は同床異夢だが、双方とも「交渉を続ける」と言う以外、選択肢はない。
領土割譲禁止条項を盛り込んだのはプーチン氏自身の方針であることは疑う余地がなく、これは、日本に北方領土問題を断念させ、「善隣条約」を受け入れやすくするための大きな心理的圧力との狙いもあるだろう。日本側はプーチン・ロシアからの硬軟取り混ぜた様々な圧力に、動揺してはいけない。
安倍・プーチン交渉がもたらした「負の遺産」をいったんリセットし、プーチン主義のロシアに向かう戦略を再構築する機会につながると考えれば、交渉の「中断」は、日本にとってはあながちマイナスばかりとも言い切れないだろう。
さて、日本のあるロシア専門家は、北方領土交渉についてコメントする場合、「後ろ向きなトーンでは相手にされないし、それでは見出しにもとれないので、マスコミに使ってもらえない」と本音を漏らしたことがある。誠に残念なことだが、プーチン氏は、自分の片言隻句に一喜一憂する日本メディアや専門家らの行動様式を知り尽くしているだろう。筆者は、プーチン氏は日本人の期待感を持続させるために、節目節目で積極的とも聞こえる発言をいわば「カンフル剤」として効果的に用いていると考えてきた。約9年前の「引き分け」発言以来、こうした例は枚挙にいとまがない。逆に言えば、日本の世論を間接的に操作するのに、欧米に使用しているような複雑なプロパガンダ(政治宣伝)や偽情報(ディスインフォメーション)の労力を割く必要などないわけだ。
今回のプーチン発言報道は「虚報」に近いとすらいいうるだろう。酷な言い方だが、このメディアは、社会的に高い公共性を要求され、自社も「正確公平なニュース」の提供を謳っているだけに、看過するわけにはいかないのである。これは報道の自由とは別次元の問題だ。著名なロシア政治・外交の研究者で米トランプ前政権ではかなり長期間、対ロ政策立案を担ったフィオナ・ヒル氏が主著「ミスター・プーチン」(邦訳「プーチンの世界」)で強調するように、プーチン氏の言葉をくれぐれもうのみにしてはいけない。ソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチン氏ら現在のロシアの政権中枢は情報戦のプロであることをあらためて肝に銘じたいものである。
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