ホーム
新規
投稿
検索
検索
お問合わせ
本文を修正後、投稿パスワードを入力し、「確認画面を表示する」ボタンをクリックして下さい。
2007-09-24 00:00
裁判員制度批判
大藏雄之助
評論家
裁判員制度が実施されるまで2年を切って、啓蒙活動が盛んになっている。私は、最高裁判所と日本弁護士会が共同で制作したPRのビデオを見る機会があった。なかなかよくできていたが、あのようにうまくいくかどうかについては疑問がある。第一に、裁判員が関わるのは、殺人などの重大な刑事事件に限られることになっているが、従来この種の裁判は何年もかかるのが当たり前だった。これからは事前手続きで争点を整理して審理の迅速を計るとしているけれども、短時日の集中的な公判が可能になるとは思えない。
私はかねてから、真実は一つに違いないが、正義や真理は一つとは限らないと考えている。近年私にとって非常識な判決をしばしば耳にするが、その結論に達した裁判官にはそれが妥当な真理であり、正義であるに違いない。しかも、最高の英知たるべき最高裁において判断がほぼ半々に分かれるにいたっては、真理が複数であることを示しているのではないか。いろいろな社会的決定段階でレイマン・コントロール(素人判断)が作用することにはそれなりの意義がある。しかしながら、裁判はそれに最も不向きな場なのではないだろうか。
イギリスやアメリカの陪審制度にも多々問題がある。かつては陪審員は該当する事件に関して先入観を持たないことが条件とされていたが、マスメディアの発達によって、誰もが相当量の、それもある程度偏った情報を持って法廷に臨むことになってしまった。
裁判を不愉快にするものの一つに、判決直後に原告側か被告側かが「不当判決」とか「勝利判決」とかを大きく掲げることがある。多分、あらかじめ二つの表示を用意しているのだろうが、裁判員には気が重いことだろう。イギリスでは最高裁に当たる上院法務部の判決に対しては批判は許されない。人間のすることは間違いがあるとしても、最終審を否定しては社会は成り立たないからである。
投稿パスワード
本人確認のため投稿時のパスワードを入力して下さい。
パスワードをお忘れの方は
こちら
からお問い合わせください
確認画面を表示する
記事一覧へ戻る
公益財団法人
日本国際フォーラム