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2021-10-25 00:00
(連載1)自民党と社会党の1960年体制
荒木 和博
拓殖大学海外事情研究所教授
選挙戦も始まりましたので、議会政治についての話をしたいと思います。55年体制という言葉に耳馴染みがある方は多いでしょう。自民党と社会党が議席を分け合い二大政党制と言っても差し支えない状況になった時期が55年でした。しかし、実際のところ時代が変わり始めたのは5年後の1960年ではないのかと考えて、青山学院大学の福井義高さん、亡くなった遠藤浩一さんらと「1960年体制研究会」というものを立ち上げて、議論を重ねたことがありますのでその話を掻い摘んでお話しいたします。1960年、社会党から右派が分離して民社党が出来、社会党には左派と中間左派が残りました。自民党は、いわゆる60年安保で動揺して岸内閣が倒れ池田内閣に移行すると、高度経済成長期を与党として過ごしました。
自民党は、そのパイが急激に膨張する中、どうやってその膨張し続ける富を分配するのかということに関心が集中する政党になっていきました。元来、自民党は憲法改正を成し遂げて自主防衛に持っていくという党是で成り立ったはずでしたが、経済成長の中でそういうことはどんどん忘れ去られていったのです。一方で、社会党は、右派が党を出たことで、左派色が非常に強い政策を採って、非現実的な主張ばかりする傾向が明確になり、民社党も1960年(昭和35年)11月20日に行われた衆議院議員総選挙で民社党が議席を半分以上失う大敗を喫し、政権獲得の可能性が無くなりました。
これにより、事実上政権を失う心配をしなくて良くなった自民党は保守政党としての本来持っていた思想やアイデンティティを失っていきました。対する社会党は、非武装中立を始めとした政権を取ることを想定していない政策を謳いながら反自民党の票をそれなりに集めて野党第一党を維持し続けました。野党第一党というのは、居心地のいいポジションです。カーレースで一番手の後ろにぴったりついて行く車みたいなもので、政権党が正面から受けるような風圧は受けない、好きなことを言っていればいい。
社会党が現実的な選択肢を国民に示す政党であったなら、自民党は保守政党としての立ち位置を見失うことはなかったでしょう。議会政治において表面的には二大政党が対立するという構図を見せつつも、政権与党と野党第一党がお互いに持ちつ持たれつの関係性にあった、その構造が出来たのが1960年だったのです。(つづく)
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