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2021-11-02 00:00
(連載1)『砂の器』『破戒』、そして『人形の家』
葛飾 西山
元教員・フリーライター
言わずと知れた名作のタイトル。だがこれは小室夫妻の成婚に至るまで両人に投げかけられたバッシングの帰結を見てすぐに私の脳裏に浮かんだものである。
日本国憲法で職業選択の自由と婚姻は両性の合意のみに基づくことが国民に保障されている。これは戦前の旧体制の身分制度とそれに起因する差別を払拭するため、生まれ落ちた家庭環境によって受ける、身分や差別という本人ではいかんともしがたい制約を一生背負って生きてゆかなければならない運命、つまり宿命から人間を解放することが根幹にある(はずである)。ただし民主国家の憲法は国家権力から国民の自由と権利を保障するための法であり、前時代において国家権力の頂点にあった皇族が国民に含まれるかどうかは、結論を見ない争点ではあるが、現状としては天皇とそれに準ずる皇族は、前時代の帝国という旧体制の支配者から一転して、「象徴」として憲法の名において国民の管理下に置かれているとも言えよう。そして皇族には象徴という曖昧な概念のもと、国家・国民が期待する伝統に沿って立ち居振る舞い生きることも求められる。
好んでその世界に入ったのならともかく、好んで皇族に生まれたわけでない以上、この生き方は当人にとっては「宿命」以外の何物でもない。皇族が「神」として存在するならば、国民と同列には論ぜられないという意見に肯首せざるをえないが、昭和天皇が人間宣言をした時点で天皇とその一族は「人間」となったのであるから、少なくとも皇族は国民と同等の「人間」として扱われ、「宿命」から逃れることは、人間として許容されるべきで、あくまで宿命を受け入れて生きてゆくかどうかは一人の人間の決意に依るべきものであろう。ところが上皇が体力の限界からの退位を表明された際も、それすら「伝統」の名のもとに許容せず、崩御されるまで退位を認めるべきでないとする意見もあった。眞子内親王の婚約にあっては、小室圭氏の家族の金銭問題が露呈して以後、圭氏や内親王の人格や、秋篠宮が皇女を学習院以外で教育したことがそもそもの過ちとして批判の対象となった。群集心理は他人に対しては宿命を受け入れて生きてゆくことを一方的に強要する嫌いがある。
そもそも金銭問題は圭氏に何らの法的責任はなく、仮に母親が亡くなって残された負債を相続する立場になったとしても、一切の相続権を放棄すれば債務の継承から免責されるのは世の常識である。ましてや母親と男性の恋愛感情のこじれに起因する民事問題である以上、双方の言い分が一致するはずもはく、民事裁判の調停以外に解決策はないわけで、圭氏の主張が「一方的な言い分」だとして批判の的になるのはそもそもお門違いなことであった。(つづく)
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