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2021-12-11 00:00
(連載1)日本の対露外交のナイーブさはスターリン時代から
袴田 茂樹
日本国際フォーラム評議員/青学・新潟県立大学名誉教授
ソ連邦崩壊後の北方領土交渉は、全体として日本側の「お人好し」の結果、暗礁に乗り上げた。いや、長年の血の滲むような交渉の成果をも自ら崩して、大きく後退した。2005年以後、プーチン大統領が「第2次世界大戦の結果南クリル(北方領土)はロシア領となった」という明らかに歴史を改竄する強硬姿勢を打ち出してくると、日本はロシア側の強硬姿勢を軟化させようとひたすら譲歩に譲歩を重ねるという対応に終始した。これは完全な逆効果を生み、ロシア側は強硬姿勢に強い自信を抱き、日本側に更なる譲歩を迫るために、強硬姿勢を一層強めるという日本にとっての悪循環となった。ロシアを相手とする限り、強硬姿勢に不用意な譲歩で応じるならば、論理的に考えてもこれは必然の結果である。
日本はこのような非現実的な対露政策を取り続け、G7の首脳の長老格として国際政治に影響力を持った安倍晋三首相も(彼の外交全体は高く評価する)、引退に際し自らの対露政策に関しては「断腸の思い」と述べざるを得なかった。この間、日本外務省や民間専門家の一部からも強い懸念や警告が出ていたのに、なぜ日本首脳はそれらの警告を無視してこのようなナイーブな対露政策を取り続けたのか。最大の問題は、日本の官邸指導部がロシア指導部の発想法やメンタリティ、彼らのロジックをリアルに理解せず、官邸周辺の一部の誤った或いは意図的な情報を頼りに、全く根拠のない期待と楽天的幻想に基づいて対露政策を推進したことにある。ではロシア側の強硬姿勢は、プーチン政権成立後のことなのか。また、日本側のナイーブな対露政策は、近年の現象なのだろうか。
実は、ソ連時代からロシアと日本のこのような関係は全く変わっていないことを、1942年から敗戦時まで駐ソ大使を務め、その後参議院議長も務めた佐藤尚武の回想録『回顧八十年』その他の資料に拠って述べたいと思う。如何なる回想録も、主観的記述でありそのまま資料としては使えないが、ここでは客観性を重んじるため、公的資料である佐藤ソ連大使の日本外相宛ての暗号公電とそれに関連した叙述のみを利用する。公電を紹介する前に、時代背景と佐藤の立場を簡単に述べたい。
1931年の満州事変から日中間の紛争は続き、1937年7月の盧溝橋事件以来、北支事変として宣戦布告のない日中戦争の状況になった。佐藤は駐仏大使も経験しているが、林銑十郎内閣で37年3月から短期間外相になった。しかしその年の6月に内閣は崩れ、盧溝橋事件が生じたのはその直後だ。佐藤は外相を受ける条件として、①平和協調外交、②平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、③対ソ平和の維持、④対英米関係の改善の4項目を挙げたが、この場合の「中国」は日本支配下の満洲は除かれている。1941年4月に日ソ中立条約が締結され、同年6月に独ソ戦、12月に日米戦が開戦となった。佐藤は42年3月から中ソ大使としてモスクワで勤務した。佐藤が着任した翌年頃から日本にとり、特に日米戦の戦況は悪化し、44年から45年にかけては、日ソ関係も中立という雰囲気ではなくなった。ソ連の対日対応も、「両国は中立条約という髪の毛一筋でつながっているようなものである。……表面上は友好国の代表者であったとはいえ、その実は準敵国扱いを受けていた……」(佐藤 p.466)という状況になっていた。(つづく)
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