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2021-12-12 00:00
(連載2)日本の対露外交のナイーブさはスターリン時代から
袴田 茂樹
日本国際フォーラム評議員/青学・新潟県立大学名誉教授
45年2月4日~11日のヤルタ会談で、ドイツ降伏の後3か月後にソ連が対日参戦する密約も結んでいた。その直後の2月半ば、ストックホルムの陸軍情報士官小野寺信が密約を入手し暗号電で日本の大本営に打電したが、当時の日本軍部(そして政府)の対ソ方針に打撃を与えるものだったので、握りつぶされた。(岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』)日本の政府や軍部は、戦況が苦しくなればなるほど、「中立国」ソ連の仲介で有利な形で平和条約を結ぼうと夢想するようになった。「ナイーブな」夢想とか「児戯に類したこと」というのは、後述のように佐藤の言葉でもある。佐藤はかつてソ連や中国との和平を唱えたが、軍部からは「敗北主義者」として弾劾された。したがって、彼はソ連の好意に頼って有利に戦争終結、すなわち平和条約を結ぼうという軍部や政府の「苦し紛れの政策転換」に関しては「非常に反感を持たざるを得なかった。……私の態度を軟弱外交の標本みたいにけなしきっていたのは、いったいだれだったのか。(ソ連に和平交渉を依頼するのは)軟弱外交にシンニュウをかけたような考え方である」(佐藤 p.474)とまで述べている。
1945年4月5日には、佐藤はモロトフ外相から中立条約破棄の通告を受けた。連合国の共通の敵ドイツを日本が援助している、との理由が付けられていたが、実際にはヤルタ密約で対日参戦は決められていた。ただ条約によると、あと1年、中立条約は有効なはずだった。その前年の4月から、日本政府(当時外相は重光葵、続いて東郷重徳)はソ連に(和平仲介依頼の)特使を送ろうと必死になって佐藤にその段取りをつけるよう訓令してきた。佐藤はヤルタ密約を知らなかったが、中立条約破棄の後は、ソ連にそのような日本特使を受け入れる意図はないどころか、ソ連の対日参戦の危険性さえ感じていた。6月8日、佐藤は東郷外相に親展電報を打ち、次のように述べている。長い電文の一部である。「ソ連をしてこれ以上わが方にとり有利なる態度にいでしむること可能なるべきや否やの問題については、本使(佐藤)としてはとうていその望みなきを信ずるものにして、みぎは今日に始まりたるものにあらず。……ソ連側は日ソ関係に深入りするを避けきたれり。モロトフとの会見にさいし、仮に本使より両国関係の強化を持ち出すごとき態度にいでたりとせば、日本外交のあまりにナイーブなるに驚きこそすれ、モロトフがその話に乗り来るべしとは到底想像でき難きところなり。」(佐藤 p.481-482)
「ソ連を仲介とした和平交渉」のため、近衛文麿を天皇の特使としてソ連に派遣することが、何と45年7月12日に決まった。佐藤は大いに戸惑ったが訓令は無視できない。ソ連側にそれを伝え、近衛特使派遣に関する相手の返事を受け取ろうと佐藤がモロトフと会見できたのは、相当待たされた後の45年8月8日夕方だった。会見の冒頭でモロトフから伝えられたのは、対日宣戦布告だった。それを電報で日本に打つことは許されたが、打った筈の電報は届いていなかった。宣戦布告を聞いた時、佐藤は驚かず「やはり来るものが来た」と随行の大使館員に言った。「日本の破滅が目の前に迫っている時、ソ連をわが方に引っ張るなどは、児戯に類したことにしか思えなかった」からである。(佐藤 p.489)
今は戦時中でもなく、日露間での戦争も考えられない。しかし、プーチン大統領との交渉で領土問題を解決するなどは、児戯に類したことにしか思えない。これは諦めよと言うのではない。主張すべきことは何十年でも毅然として主張すべきだ、ということである。(おわり)
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