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2022-04-05 00:00
(連載1)「ウクライナは政治的妥協をすべし」への違和感
松川 るい
参議院議員
時間がたつのは早いもので、もう2週間前になってしまうが、ある討論番組で、「ウクライナで沢山の犠牲者が出ているのだから、ゼレンスキー大統領はすぐにも政治的妥協をして停戦すべき」だとのコメンテーターの主張に対し反論する機会があった。「国民国土の被害だけではなく、主権がなくなった場合の犠牲も考えなければならない。」まで言ったところで、地上波につきCMで切られてしまったが。私は「国民や国土への被害が甚大だからこれ以上の被害を甘受するより妥協すべき場合がある」ということ自体はおかしな主張だとは全然思わない。特に大量破壊兵器使用の可能性があればなおさらである。他方で、その主張には何かしら村上春樹風に言えば「正しくないもの」が含まれているようでずっと違和感一杯だった。その正体は一体何なのだろうと考えていた。
まず一つは、それが極論すぎるということだった。被害を拡大させたくないというのはゼレンスキー大統領こそが一番願っていることだろう。その上で、属国化される場合の被害の度合いを考えてどこまで頑張るかということは、いつも彼の心の中で考え続けている当然のことであって、外国人が知ったかぶりで踏み込んでいいという態度に違和感はあった。2つ目は、なぜロシアではなく侵略された側に最初の妥協を迫るのかということだ。停戦と交渉を呼び掛けているのはゼレンスキー大統領の方であり、それを無視して戦闘を続けているのはロシアの方だし、無辜の民に多大なる被害をもたらす悪行もウクライナではなく、ロシアがしているのだ。3つ目は、まだウクライナは善戦しているのに、ということだ。戦時の交渉は戦況次第であり、停戦時の合意内容は戦局によって左右されるのが常識だから。
その後、3月24日に、参議院外交防衛委員会にて、グレンコ教授(ウクライナ出身)の参考人聴取の中での和田政宗議員の質疑があり、最初の1点については氷塊した。妥協した方が、つまり属国になった方がひどい目に遭うということはチェチェン戦争など見てもロシアの場合明らか、という過去の実例に基づいた回答には大変説得力があった。グレンコ教授には限られた数分の回答の中では答える機会が十分になかったと思うが、私には発言そのもの以上の含意があると思うのだ。
国を守るということはどういうことなのか。国家と国民は、必ずしもイコールではない。国民に我慢を強いてでも守らなければならない「国」というものがあると私は思う。たとえば、日本の例でいえば、私たちの日本という国は、いまここに生きている私たちだけのものではない。この日本列島で何千年もの歴史が面々と引き継がれてきた。今生きている私たちも子供やその子孫たちに引き継いでいく責任があると思う。そうした総体としての日本という国を大事にしていくことは大切なことではないだろうか。もちろん、普段は、「国」は国民を守るために存在している。では、その「国」はただの国民を守る装置なのだから、「国民」が危険になったらさっさと放棄してもいいのかどうなのか。そんな簡単なものではない。(つづく)
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