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2007-10-12 00:00
長井健司さん死亡の美談化に疑問
吉田康彦
大阪経済法科大学客員教授
「死人に口なし」、ゆえに「死者に鞭打たず」というのがわが国の美風だとされている。最近では松岡利勝農水相の自殺の例がある。松岡氏は利権まみれのダーティーな政治家として知られていた。それをあえて農水相に起用した安倍前首相の責任は大きいが、次々に暴露されて追い詰められた松岡氏は、死をもって罪を贖ったのであろう。とたんにメディアの松岡批判は止まった。死はすべてを浄化する。
ミャンマーで不慮の死を遂げた長井健司さんに対する扱いも同じパターンだ。長井さんは勇敢なジャーナリストとして、テレビも新聞も英雄扱いだ。「誰も行かないなら、誰かが行かねばならない」が彼の口癖で、危険な戦場にも飛び込んで行ったという。ミャンマー取材は初めてで、観光ビザでヤンゴンに着いてすぐ僧侶たちの街頭デモの撮影に繰り出したようだ。メディアはいっさいの批判を控えているが、彼の行動はいささか無謀ではなかったか。
初訪問なら、土地勘をつけ、現地事情を把握するのが大前提だ。軍事政権の性格、反政府デモに対する過去の対応などを下調べして、現地の同僚記者、カメラマンから情報収集した上で現場に赴くべきだった。10月7日、TBSが「報道特集」で長井さんの生前の最後のビデオを放映していたが、「これ以上は危険だから近づくな」という現地人ガイドの度重なる制止を無視し、「俺はイラクやパレスチナでも取材経験があり、大丈夫だ」と、デモ隊に近づいている。その時点で軍事政権は取材禁止令を出し、あえて撮影するカメラマンには射殺命令を出していたという。
「誰も行かないなら」と彼はいうが、ミャンマーの街頭デモは当初から外国通信社や欧米のテレビ局のカメラマンが刻一刻と映像を世界に送り続けていた。安全を期して建物の窓にカメラを据えての撮影だったので俯瞰しながらの映像だったが、十分に迫力はあった。何ごとも安全第一、命あってこそ取材も可能なのだ。
犠牲者が出ると日本のメディア報道はたちまち情緒的、感傷的になり、犠牲者を英雄視する。「無言の対面」「悲しみの再会」という見出し一色になる。私も某新聞社からコメントを求められ、上記のような感想を述べたところボツにされた。今後の反省の材料として、批判は批判として存在していいと思う。
大手のテレビ局はイラクやアフガニスタンなど、内戦状態の危険地には自社の記者やカメラマンを送らず、外国通信社の映像に頼る。その間隙を、一攫千金を狙うフリージャーナリストが体当たり取材で埋めようとする。その構造にも問題がある。情緒に流されない批判と分析が求められている。
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