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2024-12-23 00:00
(連載1)シリア情勢と『アラビアのロレンス』と「サイクス・ピコ協定」
篠田 英朗
東京外国語大学大学院教授
先日、海外出張を行った際、シリア情勢のことが気になり、飛行機内で映画『アラビアのロレンス』を視聴してみた。混沌とするシリア情勢を見て、中東の歴史を捉え直さなければならない、と思っていたところだったからだ。『アラビアのロレンス』とは、言うまでもなく、アラブ人とともにアラブ独立闘争を戦った実在のイギリス陸軍将校「ロレンス」を描いた映画だ。第一次世界大戦の最中の1916~17年頃の物語である。第一次世界大戦まで中東を支配していたのは、オスマン帝国である。ロレンスは、母国の政策に合致する形で、敵国のオスマン帝国の中東支配を掘り崩すために、アラブ人とともに戦った。あるいはアラブ人を焚きつけて、「トルコ人(Turks)」と戦わせた。
ロレンスが駐留していたのは、大英帝国が支配していたエジプトのカイロだ。しかしそこから東の中東のアラブ人地域を支配していたのは、オスマン帝国であった。ただし厳密に言えば、オスマン帝国が支配していたのは、地中海沿岸から紅海沿岸にかけての沿岸部だけだった。そこでロレンスは困難な砂漠の移動を敢行して、海岸に向けて守りを固めていたアカバのオスマン帝国軍に、砂漠側から奇襲攻撃を仕掛けた。この作戦は、大成功を収めた(アカバとは、現在のヨルダンに位置する港湾都市で、シナイ半島とアラビア半島の間で紅海を望む要衝)。アカバを陥落したロレンスのアラブ軍は、勢いに乗って次々とオスマン帝国軍に対して軍事的勝利を収めていく。そして現在のシリア領に南部から侵攻し、遂にダマスカスを攻略する。
ダウアーやタファスといったシリア南部の地名は、今月の2024年アサド政権崩壊の際にも、南部「合同作戦室(Joint Operations Room)」が蜂起した地域の町の名称として、耳にした。ロレンスのアラブ軍も、これらの町を通過して、イギリスの正規軍よりも早くダマスカスに駆け上った。しかしダマスカスを陥落させた後、アラブ軍は、内部で部族闘争を始める。中東での勢力争いを、アラブ人同士が始めたのである。ロレンスは、その状況に嫌気がさして、中東を去った。その頃、オスマン帝国の崩壊を見越して、イギリスとフランスの間で交わされた密約が「サイクス=ピコ協定」である。この協定が結ばれてからちょうど100年目となった2016年に公刊した著作の中で、池内恵教授は、次のように書いた。「『結局、サイクス=ピコ協定が諸悪の根源だ』 近頃、こういったフレーズをよく聞くようになった。中東の混迷の原因は何なのか。いったい誰が悪いのか。誰もが自然に思い浮かべる素朴な疑問や義憤に、単純明快な答えを見つけたような気にさせてくれる万能のマジックワードが『サイクス=ピコ協定』である。」(池内恵『サイクス=ピコ協定百年の呪縛』[新潮選書、2016年]19頁)
なぜ「サイクス=ピコ協定」が悪いのかと言えば、イギリスとフランスが、中東をそれぞれの統治領・勢力圏に分断してしまったからであり、その分断の過程で、後に紛争の火種となる中東域内対立の構図も作ってしまったからである。現在のシリアに対応する地域は、フランスの勢力圏と定められ、他のイギリスが支配するアラブ人地域とは切り離された。第一次世界大戦終結後にオスマン帝国が崩壊すると、「サイクス=ピコ協定」にそって、現在のシリア領の地域は、フランスが占領した。シリアが正式に独立国となるのは、第二次世界大戦後のことである。ただし独立後のシリアは、アラウィー派やドゥルーズ派が独立を求めて民族間紛争を引き起こしたり、首都ダマスカスでクーデターが繰り返されたりする政情不安な時期を長く経験した。1970年のクーデターで成立したバアス党政権が、ハーフィズ・アル=アサド大統領の独裁体制を作り出していくと、今度は世界有数の強権抑圧体制の国になった。もし「サイクス=ピコ協定」が「諸悪の根源」だとすると、「アラビアのロレンス」が活躍した1916年よりも前の時代が、今よりも望ましい中東だったことになる。それは、ロレンスのアラブ人が倒してしまった「トルコ人」が支配していたオスマン帝国の時代の中東のことである。(つづく)
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