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2025-04-07 00:00
(連載1)トランプ関税で読み直すマルクス主義経済学
篠田 英朗
東京外国語大学大学院教授
私は政治思想史に関心を持っており、政策論を扱う際にも概念構成のところからこだわりを見せたりする。たとえば「紛争後の平和構築」の国際社会の政策などを検討する際に、「国家主権の思想」の概念史などが頭に入っていると、問題意識を鮮明にするのに役立つ。ただ、こうした考え方は、進歩史観の強い学問では、あまり受け入れられないだろう。たとえば経済学だ。経済学の理論は、日進月歩と考えられているため、今日の理論は必ず昨日の先を行く、とみなされる。100年前の議論は、古すぎてゴミ同然だ、と考えるのが、普通の経済学者の方だろう。政治思想史の考え方は、究極的には人間の能力には限界があり、進歩に見えるものも変化や傾向にすぎない、と捉えてしまいがちである。たとえば自由主義思想の行き詰まりは、100年前にもあった、今はそれが繰り返されている、といった具合に考えてしまいがちである。経済学者の方からしてみると、トランプ大統領の高率関税政策は、過去数十年にわたる経済学の成果を全否定するようなものに見えるだろう。この事情を理解するには、「トランプはバカだ」とつぶやくしかない。それ以外の方法がない。ところが政治思想家は、トランプ大統領のような考え方は、かつてもあった、と考えがちである。もちろん、そうは言っても、全く同じということはないので、どのように同じ傾向が出てきたのかを考えつつ、重大な相違についても考えるようにはする。だがせいぜいその程度では、およそ進歩と言えるほどのものではない。
トランプ大統領は、関税政策について、19世紀末の大統領マッキンリーへの憧憬を繰り返し表明している。大統領就任前の下院議員時代に、それまで平均20%以上が当然だったアメリカの歴史の中でも際立って高い関税率である平均50%となる関税政策を取り入れた「マッキンリー関税法」で有名な人物だ。経済学的な発想では、130年前に大統領になった人物の政策に憧れる、というのは、ありえないことだろう。確かに当時の世界経済・アメリカ経済は、現在のそれらと比して、あまりに異なっている。いずれにせよすでに過去の古い経済理論は、劣っていたことが証明された経済理論のはずである。だがトランプ大統領の頭の中では、経済学者にとっては起こってはいけないことが、起こりえてしまう。そのトランプ大統領がアメリカの大統領である。そして「MAGA: Make America Great Again」で語られている発想の基盤になっている「以前にアメリカが偉大だった時」は、19世紀であることが確かになってきている。私はこの観点から、何度かトランプ大統領と19世紀の「モンロー・ドクトリン」を結び付けて論じることを行ってきている。高率関税も無関係ではない。あえて言えばそれは、「モンロー・ドクトリン」の時代のアメリカが採用していた「アメリカン・システム」と呼ばれた経済政策体系の柱だった。
「アメリカン・システム」と呼ばれた経済システムは、高率の関税でイギリスの工業製品などがアメリカの市場に入ってくるのを防ぎつつ、税制や補助金を通じた政府の介入的政策で、国内製造業を育成しようとする政策体系のことである。これは初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンが議会提出報告書『製造業に関する報告書』で謳いあげた政策体系そのものであった。アメリカは、保護主義の政策を、米英戦争後のイギリスの工業製品の流入をめぐる対応策の検討などをへながら、度重なる関税論争として、意識的に行い続けていたのである。1824年H・クレイは「『純アメリカ的政策』の採用」と呼ばれる有名な議会演説を行い、国内市場中心の政策を提唱して高率関税の必要性を主張した。1828年にD・レイモンドが「The American System」という匿名論文を書いている。「アメリカの保護主義運動の高揚期」であった1820年代に活躍した「アメリカ体制の最も熱烈な唱道者」の一人とされるH・C・ケアリーは、自らを「ハミルトン経済学派」と呼んでいた。(宮野啓二『アメリカ国民経済の成立』[お茶の水書房、1971年]49、163頁。)
ジェイムズ・モンロー大統領の「モンロー氏の宣言」が出て、アメリカの「モンロー・ドクトリン」の外交政策が確立され始めていくのは、1823年だった。アレクシ・ド・トクヴィルが一世を風靡する『アメリカのデモクラシー』を公刊するためのアメリカ旅行を行ったのは1831年である。後にドイツ国民経済学の始祖として知られるようになるフリードリヒ・リストが、アメリカに滞在して「アメリカン・システム」を賛美する『アメリカ経済学綱要』を公刊したのは1825年であった。前述のH・C・ケアリーによれば、「アメリカ体制」は、保護主義を標榜するにもかかわらず、世界各国民が「人間の自由と国民的独立」を達成するための体制のことである。それは「国内商業の拡大と社会的循環を刺激するような職業の多様化」を意味しており、「自由・平和・調和への唯一の道」なのだとケアリーは主張した。イギリスの「自由貿易」が「独占」を維持するための政策であるのに対して、「アメリカ体制」は「独占を打破り、完全な自由貿易を確立する」。(宮野、前掲書、292-3頁。)19世紀のアメリカは、農業が主要産業だった。特に南部諸州は、奴隷輸入と欧州向け輸出に依存する大西洋貿易システムの中に組み込まれたものだったので、ニューヨーク出身のハミルトンらが主張した高率関税政策にも批判的だった。しかし北部諸州は製造業の育成を目指して高率関税を柱にした保護主義を強く主張していた。この対立は、結局、1860年代まで持ち越されて南北戦争によって決着をつける構造的なものであった。(つづく)
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