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2008-02-13 00:00
李鴻章の知恵と北方領土
大藏雄之助
評論家
2月15日は李鴻章の175回目の生誕記念日である。李鴻章は日本では日清戦争の講和会議の清国全権大使で、下関条約に調印した人としてしか知られていないが、プロシャのビスマルクに匹敵する大政治家と言われた。ただ19世紀後半の清国は、国力が衰え、国論が乱れ、それこそ末期症状で、李鴻章も実力を発揮できなかった。
李鴻章には幾つかの逸話がある。1887年夏ロンドン滞在中、ホテルの窓から騒がしい声が飛び込んできたので「何事か」と尋ねると、「今100メートル競争で1秒短縮の世界記録が出た」という情報だった。李鴻章は「有史5千年に比して、1秒のなんと些少なる」と嘆息したという。また、イギリスの高官が清国で親が子女の結婚を取り決めることを前近代的だと批判したのに対して、「恋愛結婚はたぎりたった薬缶を火から下ろすようなもので、あとは冷える一方。わが国の方式は水の薬缶を火にかけるもの、だんだん熱くなっていく。夫婦円満、離婚は稀」と答えた。
もともと李鴻章は科挙に合格した文官である。しかし、太平天国の乱に遭遇したことから、軍事力の必要性を知って、北洋軍を組織した。日本との関係が悪化したとき、清国の戦力はほとんど北洋軍だけだったから、李鴻章は日本軍には勝てないと主張したが、清国は多数派の意見により開戦し、なすところなく敗北した。
講和の交渉では李鴻章は極力賠償金を少なくすることに努力し、台湾・澎湖諸島を割譲することにした。国内輿論は領土を失うことに反対だったが、李鴻章は「賠償金は現在でも貧しい国民に負担がかかる。国土はわが同胞が居住する限り必ず戻ってくる」と説得した。その言葉通り、僅か50年で台湾・澎湖諸島は中国に復帰した。2月7日は「北方領土の日」だったが、その四島にはわが同胞はいない。遠からず島民だった人も死に絶える。李鴻章は1901年11月7日に78歳で死去した。一時期は売国奴とののしられたが、最近再評価の動きがある。
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