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2008-07-29 00:00
野茂に「国民栄誉章賞」は似つかわしくない
吉田康彦
大阪経済法科大学客員教授
最近、引退を表明した元米大リーガーの野茂英雄投手に「国民栄誉賞」を授与すべきであるという声が出ているが、私は反対だ。そもそも何が「国民の栄誉」かについての基準が明確でないが、政府が認定し、閣議決定で授与する以上、「国民」イコール「国家」の性格をぬぐい得ないからだ。野茂の生き方は、その対極にある。野球が日本人の広い層に人気があり、プロ野球の選手が青少年の憧れの的である事実は否定できない。それゆえ、過去に王貞治、衣笠祥雄の2人が「国民栄誉賞」を受賞した理由はうなずける。イチローも打診を受けたが、辞退した。野茂の場合はどうか。日米通算201勝(米大リーグ123勝)、ア・リーグ、ナ・リーグでのノーヒット・ノーラン達成、奪三振王(日米通算で6回)など、たしかに記録はすばらしい。彼の活躍が、イチロー、松井らのその後の日本選手の渡米に道を開いたことも事実であり、その意味で偉大な先駆者だ。
しかし、野茂は日本を代表して国家・国民のために渡米したわけではない。彼が近鉄を任意引退扱いで退団、ドジャーズとマイナー契約を結んだ1995年当時は、日本のプロ球界からは石もて追われるごとくで、まさに一匹狼としての孤独な挑戦だった。滞米中の11年間に9つの球団を渡り歩いたが、2004年以降は右肩とひじの故障と年齢の衰えから挫折と失意の連続だった。その間なんども戦力外通告を受け、ベネズエラの球界にまで“都落ち”している。こうした挫折の繰り返しも、彼の粘り強いチャレンジ精神を物語るもので、共感を呼ぶ人間性の一面として「国民栄誉賞」に値する、という評価もある。しかし再三強調するとおり、野茂は「一人の日本人」として栄光を追ったのではなく、あくまでも「一人の人間」として孤独な戦いを続けたものの、肉体の限界には勝てなかったということだ。帰国後はそっとしておいてやるのが、野茂の生き方に相応しい。
日本のメディア、とくにNHKは衛星放送を普及させるために米大リーグの試合を過剰なまでに中継し、日本人選手の一挙手一投足ばかりを細かく報道しすぎる。3000本安打達成に無関係の時から、「イチローが今日はノービットだった」というのまでニュースの見出しにする。こんなことを続けていると、いつまでも米大リーグが野球の本家本元だという意識が抜けなくなり、野球までもが対米追随になる。米大リークで活躍している日本選手は、野心、名声欲、動機はさまざまだが、いずれも個人契約で渡米したのであり、日本国、日本国民を代表しているわけではない。その点が日本の名誉と国威発揚のために参加するオリンピックやWBC(世界野球選手権)と異なる点なのだ。
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