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2008-09-05 00:00
「市民の立場」とは何か:よく考えてみよう
伊藤 憲一
外交評論家
昨日付けの本欄への北田徹也さんの投稿「グルジア問題を市民の立場から考える」を興味深く読ませてもらいました。「市民のため」の議論というのは、ある意味で当然のことであり、私もいつもそのつもりで議論しているのですが、結果としてそれが「市民のためにならない」議論となる場合があるのは、認めておかなければならないことです。そんなことを考えながら、北田さんの投稿に対し、感想を一筆させて頂くことにしました。
北田さんが「市民の立場からすれば、ロシア側に依存したいと思うのは当然のことではないか」と仰られるときの「市民」が「グルジア市民」を指しているのか、「南オセチア州民」を指しているのかが、北田さんの文章からだけではかならずしも明らかでありませんが、もし「南オセチア州民」を指しているのであれば、それは「南オセチア州政府」の立場とも一致しているものであり、あまり「市民の立場」を強調する必要のある議論にはならないのではないでしょうか。
もし「市民」が「グルジア市民」を指しており、「グルジア政府」の意向に反しても、「グルジア市民」は大きな政府(ロシア)のほうに身を寄せるべきだ、というのがご主張の趣旨であるとするならば、これは相当に大きな問題を孕んだ問題提起になるのではないでしょうか。そのことに、北田さんは気づいておられるのでしょうか。冷戦時代にソ連の脅威が極大化し、北海道に上陸してくるかもしれないということが、真剣に心配されたときがありました。そのときに、ある平和主義者の学者が「市民の立場」から「白旗・赤旗」論という主張を唱えました。市民に戦火の被害が波及するのを避けるために、日本は抵抗せず、直ちに白旗(降伏の旗)と赤旗(共産党の旗)を掲げて、ソ連の支配下に入るべきである、という主張でした。
この主張が見逃しているのは、ソ連の支配下に入ったあと、「市民」がどのような運命をたどることになるかの洞察です。ソ連政府の支配下に入った日本人は、言論の自由もその他の基本的人権も失って、ソ連政府の言いなりになるよりないでしょう。ソ連が次の戦争を始めれば、その最前線に駆り出されるのは「戦争を避けるために降伏したはずの日本人」であるかもしれません。これでは「市民のため」の議論のはずが、「市民のためにならない」結果になります。目先のことだけでなく、先の先まで見通して議論することが大切であることを示す一つの例が、この「白旗・赤旗」論であるといってよいでしょう。
私自身は、今回のロシアのグルジア侵攻は、武力による他国の独立、主権、領土の侵害であり、それは「グルジア市民」にとっては当然のことながら、「世界市民」にとっても、許容することのできない「犯罪行為」だと思っています。これを許容すれば、それはロシアによる第二、第三の同様の侵略を招くことになるでしょう。それは第二次大戦の前に世界が経験した宥和政策の過ちを繰り返すことに他なりません。
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