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2008-11-29 00:00
喫煙者は根絶すべき存在か
小川 朋久
銀行員
古川慧能公氏が11月28日付本欄への投稿「愛煙者、喫煙者の皆様にお願いします」で展開された喫煙者への痛烈なご批判に対し、喫煙をたしなむ者の1人として思うところを述べさせていただきたい。この手の議論は「両者譲らず平行線」ということになりがちであり、なるべく関わりたくはないのだが、あまりに一方的な話をされて、「ちょっと待ってくれ」という気持ちになった。もっとも、古川氏のご主張の中には納得できる点がないわけではない。煙草の煙や匂いが他人に不快感を与えうるということは十分理解できるし、喫煙行為が依存症を引き起こすということも、つとに指摘されていることだ。
そのような具体的な論点は、喫煙者とておおむね理解していることであり、それゆえ個別に対応が可能である。嫌煙の風潮のなかで、分煙は定着しつつあるし、健康のために煙草の本数を抑えるといったことは、いわば常識の範疇にある。私が問題にしたいのは、そういうことではなく、むしろ古川氏が「喫煙者イコール存在悪」という図式を全面に押し出し、さらに「存在悪は消し去るべし」という考えをちらつかせておられる点にある。たしかに喫煙は21世紀の今日では悪癖の部類に入る行為かもしれない。それは素直に認めよう。しかし、だからといってその悪癖が根絶されるべきだとは思わない。
人間は、社会において数々の不快さ、不愉快さとともに生活している。香水の匂いがたまらなく嫌だという人もあれば、肉食に嫌悪感を抱く人もあろう。自動車の排気ガスで頭痛を覚える人もいれば、満員電車での通勤に吐き気を催す人もいるかもしれない。それを受けて、香水の販売・使用の禁止、肉食の違法化、自動車製造・販売の罰則化、満員電車での通勤拒否などということを真剣に訴える人がいれば、まともではないだろう。すべては程度の問題であり、人々の多種多様な利害や思惑の中で、なんとか妥協や交渉をしつつ暮らしていく、というのが文明人の弁えでありはしないか。
最近、「ゴミ屋敷」や「騒音おばさん」といった奇矯な存在が時折マスコミを賑わせている。このような常軌を逸した迷惑行為には、むろん毅然とした対応が必要だ。なぜなら彼らは一切の妥協や交渉を拒否し、社会に対して確信犯的な挑戦をしているからだ。これに対して喫煙家は、社会に対して挑戦などしていない。妥協や交渉にも応じる。むしろ自分たちの肩身の狭さを十分自覚しているくらいだ。「快適さ」や「健康」といった価値はそれ自体望ましいものであるし、追求されるべきであろう。しかし、その価値を絶対化し、邪魔するものは根絶せよという考えには、何か大きな落とし穴があるように思えてならない。皆さんのご意見を賜りたい。
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