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2010-06-08 10:10
セルビアから独立したモンテネグロ
小沢 一彦
大学教授
日本国内政治では、民主党が、世間のあまりの鳩山・小沢叩きもあり、「災い転じて福となす」という結果で、菅総理の下で参院選に臨む体制となった。参院選、9月代表選、連立選択など、まだまだ茨の道は続くであろう。どのような政権であろうと、世界の潮流を見ながら、「戦後体制」を21世紀型の最新鋭のシステムに転換し、日米同盟の強化や科学技術・経済の発展、資源エネルギーの確保、財政の再建などに取り組んで頂きたい。
さて、本題に戻ろう。ロシアの影響の強いバルカン半島の中心部・ベオグラードを離れ、バール鉄道に乗って、バルカンの山岳地帯をゆっくりとアドリア海に向けて下った。「鉄道オタク」にはたまらない路線らしいが、ディーゼル車は旧式のものである。断崖絶壁に橋やトンネルを築き、忍耐強い「スラブ魂」を感じずにはいれなかった。目的地は、セルビアより2006年6月3日に平和的に分離・独立した人口60万人のモンテネグロ(「黒い山」の意味)である。ドルルミトル山を北に見ながら、「首都」であるポドゴリツァを目指した。ポドゴリツァには、ほとんど見るべきものはなく、乗客の大半も終点の風光明美な終点駅バールへ向かった。鉱物資源には恵まれるが、あまりに国内市場規模が小さく、資源開発や観光業以外に大きな産業は見受けられなかった。
あえて、そのモンテネグロがセルビアから分離独立したのは、セルビア人主導の政治に反発があったことと、EUに加盟を希望していたこと、そしてアルバニア同様に自分たちはセルビア系ではなく、古代イリュニア人の末裔だという伝説もあったからだ。1516年にはツェテニア家による神政政治が確立。そして、1852年には世俗的公権力に移行して、朝貢外交をやめ、オスマン帝国の攻撃を受けている。
19世紀末の露土戦争の結果としてのサン・ステファノ条約、そしてベルリン条約で、独立を承認され、その後ハンガリー帝国やオスマン帝国への対抗上、意外にもロシアとの協調関係を維持していた。20世紀に入り、セルビアとの関係を深め、第二次大戦後はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一員となった。しかし、2006年にはセルビアからの分離独立を問う国民投票が行われ、投票率86.5%、賛成55.5%でEU基準を満たす独立を果たした。多「民族」国家の現在のモンテネグロは、複数政党制の共和制、議院内閣制であり、大統領はフィリップ・ヴヤノヴィっチ、首相はミロ・ジュカノヴィッチである。2007年10月には新憲法を制定して、観光業をはじめ経済発展に注力している。
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