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2010-06-27 11:50
用意周到に分離独立をかちとったスロベニア
小沢 一彦
大学教授
旧ユーゴスラビアにおける私の紛争地現場検証の旅も、終盤に差し掛かった。ザグレブ中央駅より社会見学の学生で満員の列車に乗り、人口200万人の隣国スロベニアに向かった。石灰岩の「カルスト地形」で知られるスロベニア(スラブ人の国の意味)は、クロアチアとともに、最初にユーゴ連邦から離脱し、1991年にスロベニア人として史上初めて、国家を持つことができた。ながらく、オーストリア・ハンガリーやイタリアの影響下に置かれてきたため、首都リブリャナも、オーストリアの地方都市のような静かでオシャレな美しい街である。もともとオーストリアの影響下にあり、文化的に豊かであったスロベニア共和国は、早くからの西欧接近を試みていた。
1974年憲法体制下で保障された「経済主権」を活用し、南部の発展途上にある共和国に付加価値の高い商品を販売し、国際競争力を持つ輸出品を開発。そして、機械、電気、電子工業製品産業を育成し、当時のEC諸国にも輸出しながら連携を強めた。相対的に経済産業レベルで西欧に遅れていたユーゴスラビアの中で、人口比約8%のスロベニア人が、国民所得の約20%、総輸出の約25%を占めていたのだ。貧しい他の共和国に足を引っ張られることを嫌い、1990年5月には国内資金移転政策などの南部支援は中止された。特に非同盟や自主管理社会主義を掲げ、旧ユーゴスラビア6共和国を統合してきた政治指導者・ヨシップ・チトー元帥の1980年の死は、各共和国の分離独立運動を促進した。
「1980年代の経済危機」は、さらにそれを後押しした。危機感を持ったセルビア共和国がそれまでの分権的な1974年憲法の見直し論を提起したのに対して、スロベニア共和国は「経済主権」の保持に固執した。1989年9月にはベオグラードで、第9回非同盟諸国首脳会議が開催されたが、経済負担が大きな割に見返りのない上、民族主義者スロボダン・ミロシェビッチによるセルビア中心の政治に、スロベニアは不満を強めている。そして、1989年2月には東欧革命のなかで複数政党制導入を決定、連邦共産主義同盟と対立した。さらに、1990年4月には、スロベニア共和国で初めての自由選挙が実施され、共産主義同盟が敗北し、野党連合のキリスト教民主党などのデモスが勝利した。国防相にはユーゴ人民軍を非難していたジャーナリストのヤンシャが就任し、「スロベニア民族軍」を整備する。
満を持して、スロベニアは、クロアチアと同じ1991年6月25日に分離独立を宣言したが、ユーゴ連邦軍が介入し、スロベニア東部で激しい戦闘が起きるが、用意周到に防御を固めていたスロベニア軍は、侵入してきたユーゴ連邦軍を十日余りで撃退している。一方、クロアチアでは、領内にセルビア人も多く、セルビア人保護を名目とした連邦軍と、東部や沿岸部で1995年まで激しい戦闘を展開した。その後、スロベニアは2004年に加盟したNATOやEUの一員として、主にオーストリアやイタリア、ドイツとの経済関係を強め、順調に経済発展を遂げている。現在、大統領は前リブリャナ大学法学部教授のダニロ・テュルク、首相はボルト・パホルである。これで、2009年春から2010年冬にかけての、国際紛争事例研究としての旧ユーゴスラビアへの現場視察の旅は完了した。
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