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2010-07-07 08:09
山崎浩氏の「反省と自信は両立しうる」との所論に同感する
吉田 重信
元外務省員
7月4~6日の本欄に3回にわたり連載された、山崎浩氏の投稿「吉田重信氏の藤原正彦論文批判に同感する」の結論ともいえる「反省と自信は両立しうる」との所論に同感である。これに刺激されて、さらに以下を考えた。日本の戦前の対外行動をいかに考えるか、つまり、いわゆる「歴史観」について、国民の間にまだ意見の対立や分裂があるが、そろそろ収束、和解の兆しが出てきてほしいものである。一方には、「なんでも日本が悪かった」というのは「自虐的歴史観」であるとの右派陣営の批判がある。批判される側は、「日本のかっての行動を是認するのでは、反省がないことになる」と反論する。両者の考え方には、敗戦という結果となり、諸外国によって日本が責められるようになったのは、「やるせない」という気持ちが通底している。そこで、一部の国民は「日本だけが悪いのか? 『国を愛する』と言ってどこが悪いのか?」と言いたくなる。その気持ちも分かる。しかし、それでは、国際的には通じないことが、問題なのである。
かかる感情の存在と相互間の批難が続くのは、同じ民族としては、不幸であり、遺憾である。かかる対立を乗り越えるとともに、他民族にも理解が得られそうな考え方はないものだろうか、と考えてみる。まず、日本が朝鮮や満州において他民族を支配し、さらに中国大陸への侵略をはかったことについては、あまり弁明の余地がない。欧米先進諸国のまねをしたとか、日本の「生活圏」を確保するためとか、「反日」運動を抑えるためとか、の言い訳は、被害者となった朝鮮、満州、中国の民族には、通じるはずがないからだ。これについては、日本はつべこべ言い訳せず、あくまでも詫び続けるほうが、道義的に潔い。ただ、日本民族として慰めとなるのは、意図したことではなかったのかもしれないが、日本の支配と侵略の結果、これら民族の覚せいが促され、今日のような独立、統一,繁栄がもたらされているという事実である。この点について、かって中国の毛沢東主席は、日本人の訪問団に対し、「日本軍による中国侵略は、中国共産党の政権獲得を助けた」と述べたことがあり、また、最近では、日中歴史共同研究作業において、中国側参加者のひとりが同趣旨の発表を行っている。つまり、今日の韓国と中国の発展は、先方が認めるか否かは別にして、少なからず日本の所業の結果であると言いうるのである。ただし、北朝鮮の現状は、例外であり、むしろ冷戦の犠牲になったとして、その不運に同情すべきであると考える。
他方、日本が対米戦争を開始したことについては、右派言論人によって、ルーズベルト大統領の挑発に引っかかったという説が主張されている。が、これは、引っかかって、敗戦に追いやられ方が愚かであったということであり、あまり弁護にはなっていない。さりとて、開戦前の対米交渉において、日本は、米国の要求どおり、中国で確保した権益をすべて放棄して、対米戦争を回避するという、合理的で、賢明な選択ができたかというと、当時の日本の指導者や国民としては、とうていできない相談であったと思う。結局、日本は、負けるのが分かっていても、意地で戦争したようである。このように超大国たる米国をはじめとする諸国を相手に生存をかけた戦争を行ったのは、日本民族の短慮であり、愚挙ともいえる。しかし、誇りのためには生命を惜しまない日本民族の特性として、歴史に評価される余地はありそうだ。だたし、そのように評価される可能性は、赤穂浪士のように、指導者たちが、結果を承知のうえで、死を覚悟して、その決定を行った場合だけである。だが実際には、事実が示すとおり、敗戦後、多くの枢要の指導者たちは、責任を回避しようとして、ぶざまな言動を行ったのであり、遺憾であった。近衛文麿元首相にその端的な例をみる思いがする。
むしろ、日本民族の誇るべき特性は、国民が潔く敗戦を受け入れ、占領者とも友誼を結びつつ、国家再建に取り組み、今日のような世界史に稀な成果をあげたことにあろう。その特性は、昭和の初期において和辻哲郎がつとに指摘したように、日本民族の「あきらめのよさと執拗さ」や「受容と頑張り」という「弁証法的」な特性であり、これこそが世界史的に評価されて、残るものなのかも知れない。ちなみに、英国の調査機関であったと思うが、最近行った「総合的に判断して、世界に貢献している国はどこか」という識者に対する調査結果によれは、一位にはカナダが、そして二位には日本が選ばれたという。
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