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2014-09-29 12:04
道東を走りながら考えた、北方領土問題
津守 滋
立命館アジア太平洋大学客員教授
9月下旬、根室→知床(羅臼・宇都呂)→屈斜路湖・摩周湖→根釧原野と道東をレンターカーで観光旅行した。根室は北方領土の仕事の関係で数回訪れているが(うち2回は国後・色丹へのビザなし交流での訪問の途次)、観光旅行は初めてであった。納沙布では、歯舞群島の水晶島、萌茂尻島、貝殻島灯台それに国後が、雨上りの日和の光線の中で鮮明に見えた。水晶島の上に見事な虹の橋が架かるおまけまでついた。また野付半島と知床からは、国後をま近に望見できた。私事にわたるが、私の母は根室出身で15歳までそこで育った。7年前亡くなる直前の1週間、それまであまりしゃべったことのなかった根室での子供のころのことを、うわごとで話し続けた。その中での納沙布から見た水晶島や萌茂尻島のことが繰り返し出てきた。また国後については、冬季凍結した根室との海峡に竹を渡して、壊血病にならないためのビタミン補給のため、島民がみかんを買いに歩いてやってくる話なども口にしていた。つまり母にとっては、根室と北方領土は一体だったのだ。
その根室の人口は2万8000人にまで減ってしまった。最盛時には5万近く(出稼ぎ労働者を入れると約6万人)あった。戦前には、根室からのシアトル航路が、アメリカへの最短距離であったし、大漁の水揚げの夜には、夜のネオンに輝く根室の繁華街は、銀座と同じぐらいの賑わいぶりだったという(高見順の小説から)。現在の落ちぶれ方は、痛々しい。今仮に二島(歯舞・色丹)だけでも還ってくれば、根室はある程度蘇るであろう。とはいえ、二島で手を打てば、国後、択捉は永遠に還らなくなる。それでよいのであろうか。ソ連自ら他の連合国とともに謳いあげた戦後秩序の大原則たる「領土不拡大の原則」(大西洋憲章・連合国共同宣言およびカイロ宣言)に反して、スターリンが島を掠め取った不正義を永遠に不問に付すことになる。そもそもヤルタでルーズベルトがスターリンの理屈の通らない要求を呑んだことに始まるが、その誤りをのちの米国の政府は否認している(サンフランシスコ平和条約調印の際のダレスの発言と米上院の決議さらに1953年2月の秘密条約をすべて破棄するとのアイゼンハワー大統領の宣言)。また自ら千島を放棄する条項を含むサンフランシスコ条約に不承不承署名した吉田茂首相は、アイゼンハワー宣言を受けて国会で質問した野党議員に対し、「千島その他の旧領土の返還につては、・・・極力力を致すつもりであります」と答えている。
プーチンはせいぜいのところ二島しか還す心算はないと思われる。政治・外交は妥協の技術という。とはいえ戦後の秩序の大原則に目をつぶって不正義を黙認するような妥協は、国家としての日本国の尊厳を傷つけるゆえんであるし、日本が抱える他の領土問題にも悪影響を与える。
それにしても、この素晴らしい道東地域も、危うくソ連領に組み込まれるところであった。スターリンは終戦時のどさくさに紛れて留萌―釧路ラインまで乗っ取ろうとした。さすがにトルーマンが拒否してくれたが。かくして「大きな」分断は免れたが、北方領土の分断は、決して「小さな」分断ではない。道東の道端のいたるところにみられる立て看板の「呼び戻せ、我らの北方領土!!」のスローガンを叫び続けるべきである。
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