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2017-04-07 19:22
「六本木の赤ひげ」アクショーノフ院長を偲ぶ
飯島 一孝
ジャーナリスト
「六本木の赤ひげ」と呼ばれ在日ロシア人らに信頼されていた白系ロシア人医師エフゲーニー・アクショーノフさんが院長を務めていた、インタナショナル・クリニックがとうとう解体された。東京・港区の飯倉片町交差点角地に半世紀以上も開業し、ロシア人だけでなく、海外からの賓客や観光客の診察も行ってきたが、2014年8月5日、アクショーノフさんが90歳で他界し、その後は事実上、クリニックは閉鎖されていた。
先日、知人から「インタナショナル・クリニックの敷地にブルドーザーが置いてあった」と聞き、出かけてみると、二階建ての洋館はすでに解体され、後は整地を待つばかりになっていた。正面のブロック塀と、英語で書かれた「インタナショナル・クリニック」の看板だけが残っていて、表通りからは隣の区立麻布幼稚園が直接見えた。樹木が何本か残っているが、寄りかかる物もなく、寂しげだった。塀に張ってあった管理会社に電話して聞くと、「解体後の更地にオフィス系のビル建設を検討しているが、まだ決まっていない」との返事だった。アクショーノフ院長の死後、病院の関係者はクリニックの存続を模索したが、叶わなかった。アクショーノフ院長が守ってきたクリニックは一代限りで終焉を迎えた。
アクショーノフ院長は、ロシア革命後、中国東北部のハルピンに逃げた白系ロシア人家庭の一人っ子として生まれた。馬の牧場を経営していた父の元に日本から馬を見に来た津軽義孝伯爵(常陸宮華子妃殿下の父)と知り合い、それが縁で太平洋戦争中の1943年に来日した。苦学しながら医師国家試験に合格し、戦後、米陸軍病院勤務などを経て1953年、クリニックを開業した。満州国崩壊後、無国籍になったが、旧ソ連に帰らず、無国籍のまま、一生を日本で過ごした。
冷戦時代はソ連のスパイとみなされ、警察の調べを受けるなど、苦境に陥ることもあったが、持ち前の才覚と人懐こい性格で生き抜いた。ロシア語のほか、中国語、フランス語など6ヶ国語を話せるうえ、貧しい外国人には無料で診察し、在京の大使館などから頼りにされた。プーチン大統領と何度も懇談するなど、日露友好にも大きな役割を果たした。しかし、日本政府からはその功績を偲ぶ言葉はまだない。
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