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2018-03-03 21:40
映画『チャーチル』を観て政治家の運命を考える
篠田 英朗
東京外国語大学大学院教授
先日、映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』を観た。その内容は、史実にそったものだ。『チャーチル』は1940年5月に首相に就任したチャーチルを中心に政治状況を描いたものである。1940年5月、イギリスでは、ミュンヘン会議の際の「融和政策」で有名なネヴィル・チェンバレンがまだ首相にとどまっていたが、デンマーク降伏とノルウェーでの連合軍の無惨な敗北で、辞任を余儀なくされた。そして5月10日、海軍相の地位にあったチャーチルが首相に就任することになったが、すでにドイツはオランダやベルギーへの侵攻を開始していた。ドイツの快進撃によって、約一か月後にはフランスも占領されることになる。映画では、チャーチルがすでに峠を越えた老齢の政治家であったことだけでなく、短気で酒に溺れた人物であったことが強調されている。保守党内での信望は皆無であった。やむを得ずチャーチルを首班とする戦時内閣を許したものの、保守党の主流派は、チャーチルを快く思っていなかった。彼らは、もはや戦争に勝つことは不可能であると考え、さらにイギリス占領の危機に怯え、ヒトラーとの和平を画策していた。
その頃、大陸に派遣した30万のイギリス軍は、ダンケルクに退避しただけで、ドイツ軍に包囲され、全滅の危機にさらされていた。映画『ダンケルク』が描いたように、チャーチルが850隻ともされる民間船舶を動員して、奇跡の救出劇をほぼ成功させた。これによってイギリスだけは、ヒトラーの支配下に入ることなく、ヨーロッパの最後の砦として持ちこたえ続けることになった。そのことが、第二次世界大戦、あるいは世界史の進展に、巨大な意味を持った。ダンケルクの攻防が行われているとき、ムソリーニのイタリアが独英間の和平を調停しようとしてきたのは、すでにヨーロッパ大陸のほぼ全域を制圧していたヒトラーが、実はイギリスの侵攻については迷いを持っていたことを物語る。しかし結果的には、ダンケルクの作戦の「成功」によって、チャーチルは政治的権威を強め、閣内の和平派を取り除き、戦争継続でイギリスの世論をまとめていくことにも成功する。ソ連侵攻を決断するまで、むしろ和平の道を模索したのは、ヒトラーのほうであった。1940年5月にイギリスの首相がチェンバレンからチャーチルに代わっていなければ、イギリスはヒトラーとの停戦に入り、ナチスによるヨーロッパ大陸支配は確定されていたかもしれない。チャーチルは、ダンケルクからの撤退作戦の成功後に議会で行った有名な演説を、「新世界(=アメリカ)」への期待によって結んだ。イギリス人がヨーロッパのほぼ全域を支配したドイツに対して戦争を続けようと決意した背景には、アメリカの存在があった。チャーチルは著作を何冊も持つ軍事史家であったが、ヨーロッパ大陸の動向に対する洞察だけではなく、大西洋をはさんだ米英の特別な同盟に関しても、歴史的な見地から深い洞察を持っていた。チェンバレンとチャーチルの立場を分けたのは、アメリカの存在に対する洞察であったと言うことも、的外れではない。
それにしても映画を観た後に思うのは、政治家の仕事というのは、運命に弄ばれるものだ、ということだ。チャーチルは、世界史に残る巨大な仕事を成し遂げた政治家であるが、首相に就任して間もない頃までは、偏屈で信望のない老人のようであった。時代の環境が、チャーチルを求めた。チャーチルが英雄になることを求めて、英雄になったわけではない。ただし、時代の要請に、チャーチルは的確に反応できた。それは彼が、党派政治に関心を持たず信念を持ち続けていたために、イギリスにとって貴重な「危機に際して使うことができる一つの選択肢」であり続けていたからだ。第二次世界大戦の危機がなければ、チャーチルは、海軍大臣としての失敗のエピソード以外には目立つこともなく、平凡な政治家として生涯を終えたのだろう。政治家であれば、それはそれで国民の安寧にとって望ましいことだと考えるべきである。
政治家は公僕であるから、自身の出世や、自身の能力の誇示などが、行動原則であってはならない。必要なときに、世論に訴えかけるだけでなく、他の政治家にも訴えかける理念を持ち続けていなければならない。すべては、国民が求めたとき、一つの有効な選択肢として自分自身の存在を提供するためである。日本では憲法改正の議論ですら、自民党内の政争の話として処理し、3月に誰が勝つ、負ける、といったレベルの話に、全てを還元してしまおうとする人ばかりだ。これでは政治家が可哀そうだ。せめて学者くらいは、より長期的な視点で、政治家を見てあげたい。政治家は、受験生でもなければ、官僚でもない。型にはまった競争を通じた小手先の技術を見せ合うことしかできない人物であってはならない。そんな人物ばかりが政治家を務めているような国は、国家としての総合力が弱い国だ。自分自身に機会がないときであっても、常に自分自身を一つの選択肢として提供する覚悟と準備を怠っていない者こそが、望ましい政治家というものだ。結果として、首相になるか、ならないか、歴史に名を残すか、無名で終わるかは、誰にもわからない。それらは、すべて政治家自身が操作しようとしてはいけないことである。
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