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2018-07-05 15:02
我々は沖縄戦と島守の塔の存在を忘れてはならない
船田 元
衆議院議員(自由民主党)
6月23日は太平洋戦争最大の激戦地、沖縄戦が終結した日である。以来沖縄ではこの日を慰霊の日として、糸満市摩文仁の丘にある「平和の礎(いしじ)」を中心に哀しくも静かな祈りの日となっている。この戦いで、我が国の戦闘員約10万人、非戦闘員約9万人、米軍兵士約2万人の命が失われた。その礎にほど近い森の中に「島守の塔」がひっそり佇んでいることを知る人は少ない。
悲惨な沖縄戦の蔭で、非戦闘員の犠牲をできる限り少なくしようと奔走した人物が二人いた。一人は神戸市出身の島田叡(あきら)県知事、もう一人が栃木県出身の荒井退造警察部長(いまの県警本部長)である。(以下敬称略)「島守の塔」にはこの二人の名前が刻まれている。沖縄県外から赴任していた多くの内務官僚が、身の危険を感じて早々に沖縄を後にする中、この二人は最後まで力を合わせ、県民の県外などへの疎開のため渾身の努力を続けた。その結果として7万3千人もの沖縄県民が県外疎開を果たし、約15万人が県南部から北部に移動して、辛うじて難を逃れた。しかし二人の行為、とりわけ荒井のおこないは、戦後しばらく経っても悲惨な歴史の中に埋もれていた。郷土史研究家がこつこつと調査してその存在に光を当て、埋もれた功績がようやく掘り出された。
警察部長の荒井退造は、宇都宮市清原村上籠谷という、静かな郊外の村に生まれ、旧制宇都宮中学校、明治大学を卒業後内務官僚となり、昭和18年沖縄県に赴任した。堅実で粘り強い県民性を持ち合わせていたが、加えて本人の卓越した正義感と使命感が、この困難な仕事を遂行させたのだろう。同校後輩の一人として大変誇りに思う。今は沖縄、兵庫、栃木の三県の関係者が、この二人を軸に交流を始めている。島田知事は高校野球の前身である「中等学校野球優勝大会」に出場、東大野球部の名選手でもあっため、以前から沖縄県高校野球の新人大会の優勝校に「島田杯」が贈られている。
栃木県でも荒井の母校の宇都宮高校硬式野球部と、沖縄県の高校との親善試合が行われたり、部員の練習のメニューとして、高校グランドと荒井の生家の間をマラソンで往復したこともある。このような活動を通じながら、戦争を全く知らない若い人々に、その悲惨さとともに、懸命に生きようとした人々がいたことを、しっかり受け継いで行ってほしい。6月23日を永遠に忘れないために。
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