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2007-06-18 12:41
沖縄問題
大藏雄之助
評論家
6月22日は62年前に沖縄の日本軍の組織的な戦闘が終了した日である。沖縄には私は深い思い入れがある。昭和20年の初め私は台湾南部の旧制中学の1年生だった。フィリピンがほぼアメリカ軍に制圧されたため、次は台湾だという見方が有力で、大本営も沖縄から1個師団を抜いて台湾に回し、われわれ中学生は臨時召集令で入隊した。たが、見通しは外れて沖縄が戦場になった。アメリカ軍が台湾に上陸していたら私も沖縄の鉄血勤皇隊員のように少年兵として戦死していたろう。彼らが身代わりになってくれたようでずっと負い目を感じている。
それから10年ほどのち、私は放送局に勤務していた。沖縄では祖国復帰の運動が盛んだったが、アメリカはB円をドルに切り替えて、長期占領態勢を整えつつあった。日本人の渡航は厳しく制限されていた。私は国連軍記者として承認されていたので、在日米軍の支配地域には自由に行けることになっていたから、社内で沖縄は私の守備範囲となり、第5空軍の輸送機で何度も訪問した。当時沖縄では屋良朝苗教職員組合会長や瀬長亀次郎人民党委員長ら左翼の幹部が熱心に日の丸掲揚の運動を続けていた。現在の沖縄とは隔世の感がある。私は「沖縄病」に罹った仲間と沖縄記者会を結成して活動した。
やがて復帰が実現しそうになった時、社会党や共産党は「核抜きでなければ復帰を認めない」と主張した。私はこの思いやりのない反対運動に失望した。核兵器の有無についてアメリカは明言しない。多分沖縄にはあったであろう。しかし、それを否定するよう要求すれば、返還実現は難しい。占領軍の支配下で苦しんでいる80万沖縄県民のことを考えれば、何よりも一刻も早く本土に引き取って1億2千万の全国民の力で国内から核兵器を排除する努力をすべきだった。革新系はまた「佐藤首相は糸を売って縄を買った」と非難した。私は沖縄復帰のためには繊維輸出自粛もやむをえなかったと信じている。
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