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2024-04-19 23:57
日中「戦略的互恵関係」誕生の内幕と再来の真相
鈴木 美勝
日本国際フォーラム上席研究員
昨年夏、わずか7カ月で外相を解任された秦剛が表舞台から去って以来、中国の「戦狼外交」はすっかり鳴りを潜め、このところ、習近平(国家主席)政権の硬軟織り交ぜた外交姿勢が目立つ。日中関係で言えば、その象徴的な例が昨年11月の日中首脳会談で「戦略的互恵関係」を推進することを再確認した点だ。その意味するところは、懸案があっても相互の利益を見出して戦略的に追求、日中関係を発展させるという互恵尊重の姿勢にあるが、ここに来て、習近平が胡錦濤時代につくられた「戦略的互恵関係」の枠組みを、改めて持ち出してきた狙いは何か。その内幕と併せて形成過程をたどってみたい。
◇深層・谷内─戴秉国ルート
「戦略的互恵関係」という言葉が最初に使われたのは、2006年10月、電撃的に訪中した安倍晋三(首相)と胡錦濤(国家主席)の日中首脳会談の席上だった。前首相・小泉純一郎の計6回にわたる靖国神社参拝で最悪となった関係を立て直すための安倍訪中だった。当時の関係者(複数)から聞いた、合意に至る内幕は次のようなものだ。
東京・麻布台の飯倉公館で同年9月23日に始まった日中総合政策対話(中国側の呼称は中日戦略対話)─その公式対話の合い間を縫って、谷内正太郎(外務事務次官、後に初代国家安全保障局長)と戴秉国(中国外務次官)が同別館で秘かに会談した。中心テーマは、3日後に発足する安倍新政権下で日中関係をいかに改善するか。その中で合意したのが「戦略的互恵関係」という枠組みだ。それは、日中両国が相互に信頼を醸成し、国民が理解を深め合い、様々な分野で共通の利益を見出そうとする関係を構築するための外交の枠組みだった。
日本側では、小泉後継として安倍への流れが加速した同年夏、ポスト小泉政権下の両国関係をいかにマネージしていくかの本格的な議論が外務省を中心に始まっていた。チャイナ・スクールのエースと目されていた垂秀夫(国際情報統括官付第3部担当国際情報官、前駐中国大使)が谷内に呼ばれてアイデアを求められ、8月1日付で中国課長に就任した秋葉剛男(現国家安全保障局長)に助言した。「枠組みの名称には、中国が要望している『戦略的』という言葉を使った方が良い」。別途、谷内はアジア大洋州局長・佐々江賢一郎(後に駐米大使)とも頻繁に意見交換し、前年4月から途切れていた日中首脳会談の再開を大前提に、今後の対中政策の基本的な考え方や進め方について話し合っていた。そこに秋葉が加わる形で議論が深められていった。
その結果、呼称については「“戦略的„という呼び方は米国のような同盟国との間で使うもので、体制も価値観も違う中国との関係で使うのは適切ではない。“戦略的„を使うならプラス・アルファの用語が不可欠」との意見に集約された。「プラス・アルファ」に当たる適切な言葉については探しあぐねたが、秋葉を中心とする中国課の議論の中で幾つか候補が考案された。「戦略的パートナーシップ」は即却下されたが、秋葉が挙げた数案のうちの「戦略的互恵」が、谷内の頭には残った。こうした議論を踏まえて谷内が臨んだ上述の戴秉国との会談には、佐々江と崔天凱(外務次官補)が同席。この中で戴秉国は「双方が勝利するウィン・ウィン(win・win)の関係を意味する中国語の文字」を提示した。だが、「日本語の文字にないので使えない」と判断した谷内は「『互恵』ではどうか」と逆提案し、中国側もそれに同意した。日中関係打開のキーワードとして「戦略的互恵関係」という枠組み設定は、こうしたプロセスを経て決まった。
◇安倍電撃訪中の深謀遠慮
公式な総合政策対話は24日以降も続行した。谷内が重視したのは「言葉(呼称問題)」より「行動」で、安倍新内閣発足後、できる限り早期に首相・安倍の訪中を実現することだった。この点について言えば、夏頃からささやかれていたのが、11月にハノイで予定されるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会合の際に日中首脳会談を行うべきだという案だった。が、谷内と佐々江は「ポスト小泉は安倍」を想定して別の案を考えていた。「安倍新政権が発足したら、首相はとにもかくにも早急に訪中する。最悪の日中関係を修復するには、サプライズで首相訪中を演出するしかない。でないと、現在の日中関係は打開できない」─二人はこの点で早くから一致していた。
特に谷内は既に2006年2月の時点で、新潟・月岡温泉において行った日中総合政策対話の際に、①小泉首相は8月15日の終戦記念日に確実に靖国参拝をする②中国側が望むような参拝中止は想定し難い─との見通しに立って、小泉首相が9月に退陣した後、次の政権でどのように対応するかについて、戴秉国と率直な議論を交わしていた。その時、戴秉国は、次期首相の靖国参拝は容認できないと強く主張した。
前述したような谷内・戴秉国会談は、9月26日の安倍内閣発足に前後して何回か開かれたが、戴秉国は無条件の首相訪中に慎重姿勢を崩さず、首脳会談再開に当たっては「安倍首相が靖国に参拝することはない」との言質を取ろうとした。だが、谷内は、この種の問題は安倍個人の気持ちに委ねるしかないと考えていた。「参拝するか、しないかは言わない、参拝したか否かについても確認しない」との「曖昧戦略」で押し通した。最後まで双方の溝は埋まらなかったのだが、谷内は粘り腰を見せる。谷内は「望みを捨てない。最後の瞬間まで努力したい」として、仕切り直しの会談を提案してきた(戴秉国の回想録「戦略対話」、2016年4月18日北京時事電)。
戴秉国は帰国予定を1日延ばし、27日午前、谷内の求めに応じて会談した。席上、谷内は紙を1枚取り出し、安倍との協議(25日午前)を踏まえた上で策定した方針を戴秉国に提示した。方針では「曖昧戦略」を変えていなかったが、戴秉国はその案を北京に持ち帰り、党中央に報告。「日本の方針を受け入れる」との指示を受けて、翌28日、戴秉国は急きょ、極秘で再来日する。これに先立って、駐日中国大使・王毅は佐々江を通して谷内に連絡、同日未明(午前4時)に都内の谷内邸を訪れて地ならしをしたいと申し入れる念の入れようだった。同日夜、戴秉国は東京・元麻布の在日中国大使館で谷内に会い、本国の受け入れ回答を公式に伝達した。その結果、10月8、9両日に安倍首相が中国を訪問することが決まったのだ。
「戦略的互恵関係」という枠組みは、安倍政権を引き継いだ福田政権下で、胡錦濤(国家主席)訪日の際に発表された共同声明(「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」)に明記され、日中両国が守るべき四つの政治文書のうち「第四の文書」となった。具体的には、①政治の相互信頼増進②人的・文化的交流の促進及び国民の友好感情増進③互恵協力の強化④アジア太平洋への貢献⑤グローバル課題への貢献など、日中協力の推進が盛り込まれた。
◇“復活„─王毅の知恵
以上のような経緯で日中が合意した「戦略的互恵関係」は、習近平時代になると、その強硬な外交姿勢が鮮明になるにつれて、忘れられた“古証文„のように使われなくなった。しかし、チャイナ・スクールや中国の知日派の間で忘れ去られたわけではなかった。安倍が、外相・麻生太郎のためにつくられた外交構想「自由と繁栄の弧」を口にしたがらなかったように、恐らく習近平の場合も同様だったのではないか。前任者の時代につくられた“手あかのついた言葉„をなるべく避けたいというのが、政治家の普遍的な性癖なのであろう。だが、習近平が一度も使わなかったわけではない。安倍との初めての首脳会談を含めて少なくとも2回は、「戦略的互恵関係」を使っていた。そして、昨年(2023年)の11月16日、サンフランシスコで開かれた日中首脳会談で、習近平は首相・岸田文雄との間で「戦略的互恵関係」を包括的に推進することで合意したのだ。
前駐中国大使の垂によると、昨春来、中国側から「戦略的互恵関係に戻ろうではないか」とのメッセージが届くようになっていた。メッセージ発信の主は、共産党政治局員兼外相の王毅だった。王毅は、「戦略的互恵関係」が考案された時の駐日大使。舞台裏で関与した外交官、その人だった。きっかけとなったのは、日本政府が22年暮れに閣議決定した国家安全保障戦略など安保関連3文書で中国を名指しして「これまでにない最大の戦略的な挑戦」と明記したためだった。それは、強硬一辺倒の「戦狼外交」においても、中国への逆風が強くなり始めたのを感じていた王毅の知恵でもあったに違いない。「戦狼外交」を仕切った外相・秦剛が失脚したのを受けて、政治局員兼務のまま後任の外相に就任すると、王毅は硬軟両様の外交路線にシフト、「戦術調整」に着手した。
米中首脳会談(11月15日)に続いて行われた日中首脳会談は、その後の外相・王毅の精力的な動きと併せて考えると、「習近平外交は目覚ましい成果を上げているとの国内向けのアピール」の色彩が強い。特に、米国との同盟関係を強化する日本との関係については、愛着のある「戦略的互恵関係」を持ち出し、「あわよくば、安保3文書の『最大の戦略的な挑戦』を上書きしようとしたのではないか」(政府筋)。日本政府内には、「それに応じることは有り得ない。中国側の強い呼び掛けで応じた今回の『戦略的互恵関係』再確認も、両国がそれを目指すというだけで、中国が変わらなければ、いずれ水と油であることが分かる」との冷めた見方すらある。(敬称略) (時事通信【外交傍目八目】2024/4/15配信より)
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