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2024-08-10 19:18
イランが招く報復は中東情勢を悪化させる
佐々木 卓也
会社員
7月31日、イスラム組織ハマスの最高指導者イスマイル・ハニヤ氏がイランで殺害された。それ以前にも1月2日、レバノンでハマスの幹部サレハ・アル―リを含むハマスのメンバー6人が爆撃により死亡している。だが今回の暗殺は、2023年10月7日、ハマスがイスラエル南部を奇襲攻撃して以来中東情勢にとって紛争の転換期になる。そしてパレスチナ自治区ガザとイスラエルだけの問題だけでなく、ハニヤ氏がイランの首都テヘランで殺害されたことにより、イランも巻き込んだ中東の緊迫感の高まりが、新たな段階に入ってしまった。
なぜならば7月27日には、イスラエルの占領地ゴラン高原で、ロケット弾の攻撃を受けた子供ら12人が死亡している。これについてはイスラエル軍が、レバノンを拠点としているイスラム教シーア派組織ヒズボラによる攻撃と断定した。そのためにヒズボラに支援をしている、イランに対してもイスラエルは敵対行為を激化させるだろう。またそのことが実行されれば、ヒズボラ以外の反イスラエル勢力である、ハマスとフーシの報復を誘発することになる。これらのことだけでも、中東情勢において復讐の悪循環が続いてしまうのだ。
ではその中でイランの歴史を紐解くと、19世紀にイギリスとロシアがイランを植民地にするため争い、ロシアが北部、イギリスが東南部を支配している。そして20世紀初めにイランに油田が発見されると、それを開発したイギリスのものになってしまった。それから第一次世界大戦終結後、1925年にレザー=ハーンのクーデターによりパフレビィー朝が成立する。彼は自らが国王になりレザー=シャーを名乗り、1935年に国名をイランに変えたのだ。
そしてあとを継いだレザー=シャーの子のパフラヴィ―2世も独裁色を強めながら欧米化を進めたのだ。だがそれが原因となり、国民の反発を招き1979年にイラン革命が起きた。またその目的の一つは、パレスチナの解放であったため、イスラエルと敵対することになった。そして独裁体制のもと親米派であったパフラヴィ―2世が打倒されたのだ。それによりイスラム教の国家を目指した、ホメイニをリーダーとするイラン=イスラム共和国が成立した。そしてイスラム原理主義を唱えることにより、アメリカとの関係が悪化し、現在もその状態は改善されていないのだ。
さらにイランは4月にイスラエルによる在シリアのイラン大使館空爆への報復攻撃をしたが、計300発以上の弾道ミサイルの発射は、イスラエルに「99%」迎撃され失敗に終わった。その後イランは、直接攻撃の効果がないことを知ったためか、目立った動きは見せなかったが、隣国イラク内に親イラン武装組織があり、イスラム組織ハマスが最高指導者イスマイル・ハニヤ氏の後任に、「強硬派」とされるヤヒヤ・シンワル氏を選んだことで、8月7日のイスラム協力機構(OIC)の緊急の外相会議後も、テロ攻撃の支援に戦略の比重を移していくことが予想される。
また今後イランは、紛争により経済取引のあるパートナーにも制裁が科される、2次制裁を避けつつ中東諸国以外に報復攻撃の協力国を求めていくだろう。ではどの国が、イランに必要とされるのかを考えるとグローバルサウスの一翼を担う、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの中央アジアが挙げられる。だがイランが、テロ支援国の拡大を中央アジアまで実現させれば中東の緊迫感が増し、ひいてはイスラエルとパレスチナの和平も遠のいていくのだ。
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