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2008-10-07 12:34
金融機関救済のための公的資金投入について思う
入山映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
金融機関救済のための公的資金投入が、選挙を控えた米国下院で否決された。ホワイトハウスは若干の修正を加えて今度は上院で可決に持ち込んだ。銀行のために国費を投入するのには世論の反発が強いのは、洋の東西を問わないものだと思う。いまさら古証文を引っ張りだして旧傷を思い起こしても仕方がないが、日本でもバブル崩壊直後の1992年、当時の宮沢首相が公的資金投入をほのめかしたときの猛烈な反発に始まって、95年の住専、さらには98年から始まる銀行不良債権に対する公的資金投入に対するマスコミの弾劾とも言えるような論調は、記憶に新しい。当時この政策を支持したリチャード・クー氏は孤立無援の有様で、田原総一郎氏のサンデー・プロジェクトに代表される糾弾の声が「世論」を席巻した。
煎じ詰めれば、なぜ銀行だけが、ということなのだが、米国の場合はそれに(日本の感覚からすると)法外な幹部のボーナスというおまけまでついている。いわゆる「庶民感情」は、単なる経営責任論を超えて、まさに感情的反発の域に達する訳で、それはそれで無理からぬ側面もあるだろう。日本でも有権者が皆納得の上で資金投入に踏み切った訳でもなんでもないのは周知の通りだ。ついでに付言すれば、バブル崩壊直後、ルービン財務長官(当時)が日本政府に公的資金投入の圧力をかけたのも、公然たる事実だし、今年1月に当時の渡辺金融相や額賀財務相が米国に対して早手回しの対応を助言したとき、「鼻も引っかけない」応対をされたという報道もあった。さらにそれに関連して言えば、アジア通貨危機に際して、マハティールを始めとするアジアの指導者が、空売り規制や短期資金流動に禁止的措置をとったとき、これは市場原理に反するとして、「お身内のなれ合い資本主義」(crony capitalism)呼ばわりをされたことも、覚えておられる読者も多いと思う。わがこととして他人の経験を生かすことはいかに難しいか、ということである。
不良債権の買い取りにあたっては、それをいくらと評価して買い取るのかが一番難しい部分だ。客観的にみればまず成功の評価を受けてもよい日本の場合でも、バブル崩壊直後の暴落した不動産や金融機関を米国を中心とする外資が買いあさったことから、当時の財政政策はアメリカの言うなりに日本国民の資産を投げ売りにするものだ、との論調が支配的であった。ことの原因が市場経済の基本にある信用創造機能にあることは、誰でも知っている。実体経済の規模をはるかに超えたオカネの市場規模が存在している限り、今回ことは収まっても再発は必至だ。とりあえずの症状の激変を緩和して当面を凌ぐ、ということしか策はないのか。それともソロス氏のいうような基本的な金融市場の規制なるものに実効性があるのか。金融工学などというう枯れた議論よりも、ぜひこうした議論の深化をこそ望みたい。なんていうとNHKみたいで気がひけるのだが。
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