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2017-06-06 09:52
(連載2)憲法学者による憲法9条と13条の倒錯的な理解
篠田 英朗
東京外国語大学大学院教授
憲法9条解釈を例にとってみよう。木村草太・首都大学東京教授は、憲法13条が「9条の例外としての自衛権を根拠づける」のだと主張する。「13条を根拠とする自衛権は、個別的自衛権だけを認め、集団的自衛権は認めない」と主張する。ここで独特なのは「まず9条が13条に先立って自衛権を放棄し、その後13条が個別的自衛権だけを例外化する」という論理展開である。しかし、憲法を前文からきちんと読めば、事情が逆であることがわかる。13条の権利を持つ人民が、原理としての「信託」行為で、政府を樹立する。そして、平和を達成して、よりよく13条を実現するために、国権の発動としての戦争の禁止を宣言する。これが憲法の論理構造であり、「信託」によって成り立つ立憲主義の論理構成だ。
9条で戦争放棄を宣言している時点で、すでに国民は13条の幸福追求権を持っているはずだ。13条は後付けで9条に例外を加えるための規定ではない。むしろ13条の権利をより一層強く守るために、平和を求める政策が求められ、その手段として9条の規定が定められている、と解釈すべきである。どんな犠牲を払ってでも絶対平和主義を貫こうなどという態度は、本来は反立憲主義的であり、反9条的である。9条で戦争がない国際社会を目指すのは、国民の権利をよりよく守る原理にしたがってのことである。9条で国際法上の概念である自衛権が放棄されないのは、13条を危うくする形で独善的に平和が求められているはずはないからである。国際社会は平和であるほうが13条の権利の保障に役立つので、9条で規定されたやり方が導入される。国際法における自衛権は認めるほうが13条の権利の保障に役立つので、9条のやり方が導入される。そのように、9条を解釈すべきである。たとえ他国の防衛にあたる行為であっても、13条に役立つのであれば、合憲的である。たとえ国際社会全体の平和を守るための行為であっても、13条に役立つのであれば、合憲的である。13条は、日本国民への攻撃があった場合だけに適用される、といった解釈は、国民=国家の有機的存在を実体的に捉えすぎたドイツ国法学的な考え方であり、憲法典上の根拠がない。
たとえば朝鮮半島有事の場合には、日本が攻撃される前の段階であっても、日本政府が憲法13条の観点から国民の安全に役立つと思われる措置をとることを、止めるべきではない。韓国や米国と協力して、日本国民の安全確保にも役立つ行動をとる日本政府に、「日本が攻撃されていないのに邦人保護するのはおかしい」とか、「米国や韓国と協力せず、どこまでも個別的に行動しなければならない」とか、「朝鮮半島の安全は日本人の安全と全く関係がない」、などと非難を浴びせるとしたら、それは全く独善的な態度であり、反13条の態度だ。木村教授は、本来は国際法の概念である自衛権を、13条で基礎づけようとする。この試み自体が、実はかなり異様である。たとえば、国際法上の民族「自決権」や海洋での「無害通航権」などの権利のいかなるものも、憲法典で根拠づけようなどとはしない。しかし、ただ自衛権だけは、憲法が根拠を示さなければならず、国際法はそれに従わなければならない、というのである。なぜ自衛権だけは根拠が憲法になければならないのか。実定法上の理由はない。憲法学者の思い込み以外には、全く何も他に理由がない。
全ては、はじめの一歩で9条の絶対平和主義を措定し、あとは例外があるかどうかをチェックするのが、正しい憲法解釈の筋道だと思い込んでいることが原因である。繰り返そう。憲法の「一大原理」は、「信託」である。国民の権利を守る措置をとる社会契約上の権限を、政府に委託しているのが、立憲主義の原理である。政府は、国際平和を希求する際も、自衛権を行使する際も、この立憲主義の原理にそって、行動すべきである。「信託」にそっているかどうかが、政府の行動の合憲性の審査基準であるべきである。これに対して憲法学者は、まず抽象的な絶対平和主義を包括的に設定し、それにしたがって政府の行動を制限したうえで、ただ政府に許可してもいい「例外として自衛権を設定するかどうかを検討するべきだ」と主張する。私は、そのような思考方法は、立憲主義的なものとは言えないと考えている。(おわり)
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篠田 英朗 2017-06-05 12:37
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篠田 英朗 2017-06-06 09:52
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