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2017-07-24 13:48
(連載1)「劉暁波氏の死去」にみる西側と中国の変化
六辻 彰二
横浜市立大学講師
7月13日、中国の作家で人権運動家の劉暁波氏が死亡したニュースが世界を巡りました。劉氏は天安門事件を主導した、中国の民主化運動を象徴する存在。末期の肝ガンの合併症により、当局の監視下にある病院で死亡しました。その死が民主化運動を活発化させることを警戒したのか、中国国営の新華社は葬儀や散骨の様子を報道して、故人の尊厳が守られていると印象付けようとしています。劉氏の死去は、民主化運動に対する中国当局の警戒感を改めて浮き彫りにしたといえます。ただ、その一方で、はからずも、天安門事件の頃と比べて、中国および世界の状況が変化したことをも明らかにしました。そこからは、天安門事件をきっかけに形作られた「冷戦後の世界」が終わりつつあることを見出せるのです。
まず、劉暁波氏について、簡単に確認します。先述の通り、劉氏は1989年の天安門事件で主導的な役割を果たしましたが、その後も共産党体制を批判する言論活動を展開。度々、逮捕・投獄されながらも、2008年には有識者300名以上が署名した「08憲章」を起草。これは共産党一党体制を批判し、民主化を求める内容だったため、劉氏は即時逮捕されたのです。翌2009年、劉氏は国家政権転覆扇動罪で有罪判決を受け、懲役11年の刑に処されました。しかし、2010年には獄中でノーベル平和賞を受賞。これに中国政府は強い反感を示しました。結局、獄中の劉氏は授賞式に出席できませんでしたが、そのスピーチ原稿には「私に敵はいない」という一文がありました。これは、白人支配のもとにあった南アフリカで、白人政権に抵抗したネルソン・マンデラが27年間の投獄生活を経験し、そのうえで「全てを赦す」境地にたどり着き、人種間の融和を目指すに至ったことを思い起こさせるエピソードです。
劉暁波氏をめぐっては、天安門事件の頃から、西側と中国の間に小さくない対立がありました。その存命中から、メディアや人権団体を中心に、西側は劉氏を「民主化の闘士」と位置づけてきました。これに対して、中国当局は彼を「犯罪者」と呼び、「人権侵害」を批判する海外に対しては「国内問題」や「内政不干渉」を強調してきました。この構図は、香港の民主化問題だけでなく、チベットや新疆ウイグル自治区での少数民族の弾圧をめぐるものと、ほぼ同じです。しかし、これら特定の区域の自治権に関わる問題と比べても、劉氏や08憲章の場合、共産党体制そのものに関わるものであるだけに、この構図が鮮明だったといえます。その一方で、劉氏の死去に関しては、天安門事件の頃からの変化も見出すことができます。そこには、次の二つのポイントがあります。(1)西側先進国が「民主主義の宣教師」として振る舞うのを控え始めたこと、(2)中国が「国際世論」への働きかけを強めていること。
このうち、まず第1点目について。冷戦の事実上の勝者となった西側先進諸国では、自由や民主主義への自信がいよいよ深まり、これらが「全世界で採用されるべきもの」と捉え直されるに至りました。その結果、冷戦後の西側先進国には、相手国の人権問題などを理由に、経済制裁などを行うことが目立つようになったのです。天安門事件は、その大きな転換点となったものでした。冷戦終結を決定づけた1989年12月のマルタ会談より半年ほど早く、同年6月に発生した天安門事件を受け、西側各国は援助停止や取引制限などを実施。その結果、1988年に11.2パーセントだった中国のGDP成長率は、1990年には3.9パーセントにまで低下しました(世界銀行)。民主化運動を力ずくで抑え込んだ中国政府は、高い代償を支払うことになったのです。西側諸国の強い反応は、各国メディアが、当時実用化され始めていた衛星中継を用いて、天安門広場の様子を世界に広く伝えたことで後押しされました。天安門事件後の西側は、自由と民主主義の旗のもと、朝野をあげて中国への制裁に向かったといえます。その翌1990年、米英仏など主な西側先進国はそれぞれ、相手国の人権保護や民主化の促進を、援助の条件にすることを宣言し、「自由と民主主義に基づく国際秩序」を目指す方針を鮮明にしたのです。(つづく)
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